名物学
名物学(めいぶつがく)とは、前近代の中国や日本(東アジア)で発達した学問の一つ。単に名物ともいう。「名前と物の対応関係」を扱う分野[1]。訓詁学・本草学・博物学等と重複する。具体的には、物を同定する営為[2][3]、および「異名同物」「同名異物」を整理する営為。ここでいう「異名同物」は、古名・方言名・和名・漢名・洋名などを指す。「同名異物」は、例えば「キリン」と「麒麟」[4]、「人参」と「高麗人参」[5]、「鮭」と「サケ」[6]、「蘭」と「ラン」[5]などを指す。
概要
編集名物学の「名物」という語句の用例は古くからあり、初出は『周礼』にさかのぼる[7]。名物学は伝統的な学問である一方、体系性の薄い漠然とした学問でもあったが、1950年代日本の中国学者・青木正児の「名物学序説」(『中華名物考』所収)により体系化された[8]。
名物学は、元々は訓詁学(とりわけ『詩経』訓詁学と礼学)の下位分野として生まれた。すなわち、『詩経』や『礼記』に出てくる動植物や器物を同定する分野として生まれた。のちにそこから半ば独立して、本草学[9]・園芸学・農学・地誌学・妖怪研究[9]・古物蒐集[10]・図譜[11]・譜録・類書などと重なる総合科学として発達した(青木の説明では「格古」「本草」「種樹」「物産」「類書」[12][7])。そのほか、青木が戦前に読んでいた中川忠英『清俗紀聞』や柳亭種彦『還魂紙料』のような風俗研究・考証随筆[13]や、戦後の青木自身による食文化研究[13][14]も、名物学の要素をもつ。
名物学の背景思想として、『論語』子路篇の「正名」(名を正す)や、陽貨篇の「多識」(『詩経』を学ぶ意義の一つは動植物について博学多識になること)といった孔子の教えがあった。また、朱子学の「格物」と紐付けられることもある[15]。
歴史
編集名物学の書物の筆頭として、前漢頃の『爾雅』、および後漢末の『釈名』がある[7]。また、詩経名物学の筆頭として、三国呉の陸璣『毛詩草木鳥獣虫魚疏』(通称『陸疏』)がある。また、明末の李時珍『本草綱目』は、その凡例で「本書は『爾雅』や『陸疏』を補完する書物でもある」と述べているように[16][17]、本草学だけでなく名物学の大著でもあった。清朝考証学の時代には、程瑤田が特に名物学を扱った[7]。考証学者たちは、名物学のなかでも特に礼学の名物学を扱った[7]。
日本では、江戸時代に特に盛んになった[18]。その背景として、隣接分野の儒学・本草学・万葉学[19]等の流行、上記の『陸疏』『本草綱目』等の受容、平安時代の『本草和名』『和名類聚抄』等以来の和名比定の伝統、などがあった。江戸時代の主な書物として、林羅山『多識編』[9]、伊藤東涯『名物六帖』、貝原益軒『日本釈名』、新井白石『東雅』、稲生若水『庶物類纂』、新井白石が稲生若水に書かせた『詩経小識』や狩野春湖に描かせた『詩経図』[20][18]、岡元鳳『毛詩品物図攷』、春登上人『万葉集名物考』[19]、曽占春『国史草木昆虫攷』[18]、源伴存(畔田翠山)『古名録』[18]、狩谷棭斎『箋注和名類聚抄』、山岡浚明『類聚名物考』、三浦蘭阪『名物摭古小識』、寺島良安『和漢三才図会』[21]、中井履軒『左九羅帖』『画觽』[1]などがある。貝原益軒『大和本草』などの本草書も含めれば、この他にも多数ある。木村兼葭堂[22]や牧野富太郎[23]も名物学者とみなされる。
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b 湯城吉信「中井履軒の名物学 その『左九羅帖』『画觿』を読む」『杏雨』第11巻、武田科学振興財団杏雨書屋、2008年。
- ^ 杉本 2006, p. 33.
- ^ 木場 2020, p. 100f.
- ^ 湯城吉信「ジラフがキリンと呼ばれた理由: 中国の場合、日本の場合(麒麟を巡る名物学 その一)」『人文学論集』第26号、大阪府立大学、2008年。
- ^ a b “牡丹に秘められたミステリー(隠藏在牡丹花中的秘密)久保輝幸さん”. 人民網日本語版. 2020年5月24日閲覧。
- ^ 青木 1988, 名物零拾(3)鮭はサケに非ず.
- ^ a b c d e 青木 1988, 名物学序説.
- ^ 辜 2018, p. 238.
- ^ a b c 木場 2020.
- ^ 鈴木 2003, p. 148-159.
- ^ 原田信「清代の『詩經』圖解について -前代の繼承と改編-」『中國文學研究』第41巻、早稻田大學中國文學會、2015年。
- ^ 辜 2018, p. 232.
- ^ a b 青木 1988, p. 自序.
- ^ 水谷真成「解説」、青木正児 訳註『随園食単』岩波書店〈岩波文庫 青 262-1〉、1980年。
- ^ 謝蘇杭「近世前期本草学における実学思想の考察 : 稲生若水と貝原益軒を例に」『千葉大学人文公共学研究論集』第38巻、2019年、47頁。
- ^ 武田雅哉「『本草綱目』 モノからヒトへ・宇宙の秩序を構築しようとした科学図鑑」『月刊しにか 7(12) 特集:中国の博物学 絵入り百科・博物書の世界』、大修館書店、1996年、44頁。
- ^ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:本草綱目/凡例
- ^ a b c d 上野 1989, p. 144-147.
- ^ a b 和田義一「春登 『萬葉集名物考』 と本草学」『國文學』、関西大学国文学会、1998年 。
- ^ 陳 2020, p. 253f.
- ^ 島田 1985.
- ^ 芥川龍之介 『僻見』:新字新仮名 - 青空文庫 "巽斎の所謂娯楽なるものに少しも興味のなかつたことはこの一節の示す通りである。「余が嗜好の事専ら奇書にあり。名物多識の学……"
- ^ 鶴田想人「植物の名を正す――牧野富太郎の見果てぬ夢」『ユリイカ 2023年4月号 特集=牧野富太郎の世界』、青土社、2023年。ISBN 978-4-7917-0429-3。124頁。
参考文献
編集- 青木正児『中華名物考』平凡社〈東洋文庫〉、1988年(原著1959年春秋社)。ISBN 4582804799 。NDLJP:2933760
- 上野益三『日本博物学史』講談社〈講談社学術文庫〉、1989年(原著1948年星野書店 ; 1973年平凡社)。ISBN 978-4061588592。
- 加納喜光 『詩経 1 恋愛詩と動植物のシンボリズム』 汲古書院、2006年。ISBN 978-4762927621。
- 木場貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』文学通信、2020年。ISBN 978-4909658227。
- 久保輝幸 「牡丹・芍薬の名物学的研究(1) 牡丹とヤブコウジ属植物の比較」 『薬史学雑誌 46(2)』 日本薬史学会、83-90頁、2011年。
- 辜承堯「青木正児の名物学研究とその評価について」『関西大学東西学術研究所紀要』第51巻、2018年 。
- 辜承堯『風雅孤高の文芸者 青木正児の構築した中国学(シノロジー)の世界』東方書店、2023年。ISBN 9784497223197。
- 島田勇雄 著「近代の語彙2」、阪倉篤義 編『講座国語史 3 語彙史』大修館書店、1971年 。NDLJP:12447331/132
- 島田勇雄 著「解説『和漢三才図会』上」、寺島良安著、島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳共訳注 編『和漢三才図会 2』平凡社〈東洋文庫〉、1985年、305-363頁。ISBN 978-4582804515。
- 鈴木廣之『好古家たちの19世紀 幕末明治における《物》のアルケオロジー』吉川弘文館〈シリーズ 近代美術のゆくえ 〉、2003年。ISBN 978-4642037563。
- 杉本つとむ『江戸の博物学者たち』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年(原著1985年青土社)。ISBN 978-4061597648。
- 張小鋼「青木正兒博士の「名物学」と名古屋大学図書館の青木文庫」『名古屋大學中國語學文學論集』第6号、2007年。doi:10.18999/joucll.6.(55) 。
- 陳捷 著「『毛詩品物図考』より見た18世紀における新しい「知」の形成」、川原秀城 編『西学東漸と東アジア』岩波書店、2015年。ISBN 9784000610186。
- 陳捷 著「経学註釈と博物学の間―江戸時代の『詩経』名物学について」、陳捷 編『医学・科学・博物 東アジア古典籍の世界』勉誠出版、2020年。ISBN 978-4-585-20072-7。
- 西村三郎『文明のなかの博物学 西欧と日本 上』紀伊國屋書店、1999a。ISBN 978-4314008501。
- 西村三郎『文明のなかの博物学 西欧と日本 下』紀伊國屋書店、1999b。ISBN 978-4314008518。