吉田良義
幕末の公卿
吉田 良義(よしだ なかよし[2]/よしのり[1])は、幕末の公卿。吉田良熈の子。明治期の神職・華族。子爵。
吉田良義 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保8年3月9日(1837年4月13日)[1][注 1] |
死没 | 明治23年(1890年)3月4日[1] |
改名 | 登毛丸(幼名)[1]→良義 |
官位 |
従三位侍従兼神祇権大副 従二位、子爵 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 卜部氏嫡流吉田家 |
父母 | 父:吉田良熈、母:石川総安の長女[2][3] |
妻 |
直(奥田直央長女) 吉田静子(岩倉具視の五女) |
子 | 良正、清閑寺良貞、鈺子、瀧子 |
経歴
編集天保8年(1837年)、京都で吉田良熈の子として誕生[1]。嘉永2年12月29日(1850年2月10日)、叙爵される[4]。嘉永3年9月28日(1850年11月2日)、元服し昇殿を許される[1][3]。
安政3年2月5日(1856年3月11日)、侍従[1][3]。安政5年(1858年)、父と共に廷臣八十八卿列参事件に加わった[1]。慶応元年12月23日(1866年2月8日)、従三位に叙され、公卿となった[4]。慶應2年1月2日(1866年2月16日)の白馬節会では外弁を務めた[5]。慶應3年8月26日(1867年9月23日)、神祇権大副に任じられた[1][3][6]。慶應4年4月2日(1868年4月24日)父の薨去により服解し、同年閏4月23日に除服し、出仕・復任する[3][7]。明治2年、百官の廃止に伴い、律令制下の官職である侍従・神祇権大副を解任された。
明治維新を迎え、家学吉田神道の隆盛を意図して平田銕胤、矢野玄道から国学を学んだ[1]。慶応4年2月20日(1868年3月13日)、参与、神祇事務局補となる[1][8]。以後、皇学所御用掛、宮中勤番、皇太后宮職勤番などを務めた[1][8]。
明治12年(1879年)、吉田神社宮司となる[9]。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[10]。同年7月17日、日枝神社宮司に就任し[11]、明治20年(1887年)3月29日に再任[12]、明治23年(1890年)3月4日の帰幽まで務めた[13]。没日付で従二位に叙されている[14]。
位階
編集出典のないものは公卿補任による[4]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 『明治維新人名辞典』, p. 1071.
- ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 828.
- ^ a b c d e 『公家事典』, p. 869.
- ^ a b c 『公卿補任』, p. 567, 孝明天皇慶応元年条.
- ^ 『公卿補任』, p. 572, 孝明天皇慶応二年条.
- ^ 『公卿補任』, p. 582, 明治天皇慶応三年条.
- ^ 『公卿補任』, p. 591, 明治天皇明治元年条.
- ^ a b 『百官履歴』上巻, p. 371–372.
- ^ 『日本人名大辞典』, p. 2035.
- ^ 『官報』第308号, p. 2, 「叙任」.
- ^ 『官報』第316号, p. 1, 「叙任」.
- ^ 『官報』第1121号, p. 2, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第2003号, p. 6, 「彙報(官庁事項):宮司死去」.
- ^ 『官報』第2001号, p. 4, 「叙任及辞令」.
参考文献
編集- 『百官履歴』上巻、修史局編、日本史籍協会、1928年。
- 『公卿補任』第五篇、黒板勝美・國史大系編修會編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。
- 『明治維新人名辞典』日本歴史学会編、吉川弘文館、1981年。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 『日本人名大辞典』上田正昭他、講談社、2001年。
- 『公家事典』橋本政宣編、吉川弘文館、2010年。
官報
編集- 『官報』第308号、1884年7月9日。
- 『官報』第316号、1884年7月18日。
- 『官報』第1121号、1887年3月30日。
- 『官報』第2001号、1890年3月5日。
- 『官報』第2003号、1890年3月7日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 吉田家初代 1884年 - 1890年 |
次代 吉田良正 |