吉田 政重(よしだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将長宗我部氏の家臣。

 
吉田 政重
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
死没 寛永5年(1628年
別名 又左衛門、市左衛門(通称)[1]
主君 長宗我部元親盛親
氏族 土佐吉田氏
父母 吉田俊政
兄弟 政重正義
秦泉寺掃部
平左衛門、猪兵衛
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出自

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土佐国国人である土佐吉田氏は、藤原北家秀郷流の末裔を称する山内首藤氏の支流。山内首藤俊通の子・俊宗足利尊氏に従い、功を上げ土佐に所領を得たことを始まりとする。

生涯

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永禄11年(1568年)、長宗我部氏の家臣・吉田俊政の子として誕生。曽祖父・吉田重俊、祖父・重康の家系にあたる。身の丈6尺2寸(188cm)の偉丈夫で、武勇に優れていた。

天正10年(1582年)、中富川の戦いを初陣に、各地を転戦して武功を挙げた。文禄元年(1592年)から始まる豊臣氏による文禄・慶長の役では、敵将の朴好仁を捕らえるという大功を挙げ[2]、陣地を荒らしていた退治をしている[3]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、長宗我部氏が改易されたため、政重も所領を失った。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、旧主・長宗我部盛親に従って大坂城に入城する。大坂城落城後も生き延び、土佐国に帰国した。土佐藩土佐山内氏から、再三仕官を勧められるが、弟・正義を仕官させ、自身は医者となった。

生涯で挙げた首は115個にも及び、首より上の傷は21ヶ所もあり、身体の傷は数えるいとまもないほどだったとされる[4]

脚注

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  1. ^ 土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」に、中富川の戦い1582年)の時点では名乗っていないが、後に改名したと記す。
  2. ^ 『土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」。巻第十七「山内七郎兵衛妻女の事」に、文禄3年(1594年)、元親勢が生け捕った380余人と共に土佐へ行くが、朴好仁は秋月城主であったことから秋月氏と呼ばれた(脚注に、「のちに妻子を残し、帰国」とある)。
  3. ^ 『土佐物語』によれば、虎は2発の鉄砲玉を受けても死なず、政重が首を斬りつけても、逆に首をかんで(兜で防いだ)、喉を七刀で刺し、止めをさした。長宗我部元親感状康光の刀を与え、『日本書紀』の虎退治をした大将の逸話から、「その者に劣らないので、虎の爪を切りとり、土産とせよ」と言い、吉田家に江戸時代になっても伝えられていると記す。
  4. ^ 『土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」。