吉川経健
江戸時代後期の周防国岩国藩2代(最後の)藩主
吉川 経健(きっかわ つねたけ)は、明治時代の大名、華族。周防国岩国藩2代(最後の)藩主、初代(最後)知藩事、最終的な位階爵位は従二位子爵。
吉川経健 | |
時代 | 明治時代 |
生誕 | 安政2年8月26日(1855年10月6日) |
死没 | 明治42年(1909年)6月4日 |
改名 | 菊川芳之助、吉川経健 |
墓所 | 山口県岩国市横山の洞泉寺山墓地 |
官位 | 正四位・駿河守、贈従二位 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 周防岩国藩主 |
氏族 | 吉川氏 |
父母 |
父:吉川経幹 母:井上円治娘 |
兄弟 | 経健、重吉ら |
妻 |
毛利元純五女磯子、堤功娘松子、 加藤泰秋娘直子、千家尊澄娘喜佐子 |
子 | 芳子、元光 |
略歴
編集初代藩主・吉川経幹の長男として誕生した。幼名は菊川芳之助。
慶応3年(1867年)、父の死去により跡を継ぐが、毛利敬親の命令でその死去が隠されたため、正式に跡を継いだのは明治元年(1868年)12月28日である。明治2年(1869年)1月に叙任し、同年6月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世5000石を与えられた。同年、版籍奉還により知藩事となる。
明治3年(1870年)に本家の長州藩で脱隊騒動が起こると、その鎮圧に努めた。明治4年(1871年)に廃藩置県で免官となり、東京へ移る。以後は旧藩士に対して義済堂を創設して、その自立を助けた。明治17年(1884年)に男爵を受爵、明治24年(1891年)4月23日には子爵に陞爵(しょうしゃく)する[1]。
栄典
編集系譜
編集脚注
編集日本の爵位 | ||
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先代 陞爵 |
子爵 吉川家初代 1891年 - 1909年 |
次代 吉川元光 |
先代 叙爵 |
男爵 吉川家初代 1884年 - 1891年 |
次代 陞爵 |