古谷 久綱(ふるや ひさつな、明治7年(1874年6月17日 - 大正8年(1919年2月12日[1])は、日本の官僚、政治家。衆議院議員立憲政友会)。伊藤博文の秘書官を長く務めた。

古谷久綱

経歴

編集

愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市)出身。明治26年(1893年)、同志社を卒業した。日清戦争の際には、国民新聞記者として第2軍司令部に従軍した。明治32年(1899年)、ブリュッセル自由大学に論文を提出し、博士号を得た。

明治33年(1900年)、帝室制度調査局事務嘱託・東京高等商業学校(現在の一橋大学)教授となったが、帝室制度調査局総裁伊藤博文の目に留まり、同年に伊藤が内閣総理大臣に就任すると、内閣総理大臣秘書官に起用された[2]。翌明治34年(1901年)に第4次伊藤内閣が総辞職すると帝室制度調査局秘書に転じた。

その後も伊藤が明治38年(1905年)に韓国統監に就任すると、統監秘書官、ついで統監府総務部秘書課長に任じられた[3]。さらに伊藤が明治42年(1909年)に枢密院議長に就任すると、議長秘書官・宮内省式部官に任命された[4]

伊藤の死の翌年の明治43年(1910年)に枢密院議長秘書官を辞して、李王職御用掛に転じ、大正4年(1915年)まで務めた[5]。同年の第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。大正6年(1917年)の第13回衆議院議員総選挙にも当選した。大正6年(1917年)国電高円寺駅阿佐ケ谷駅の開設に尽力[6]

栄典

編集

親族

編集

著書

編集
  • 『藤公余影』民友社、1910年

脚注

編集
  1. ^ 官報』第1958号、大正8年2月14日。
  2. ^ 『官報』第5194号、明治33年10月23日。
  3. ^ 『官報』第7153号、明治40年5月7日。
  4. ^ 『官報』第7821号、明治42年7月21日。
  5. ^ 『官報』第757号、大正4年2月12日。
  6. ^ 『青柳瑞穂の生涯: 真贋のあわいに』青柳いづみこ、新潮社、2000年、p33
  7. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  8. ^ a b c d e 『人事興信録 第5版』
  9. ^ 『人事興信録 初版』

参考文献

編集
  • 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 『衆議院要覧下巻 大正七年十二月』衆議院事務局、1918年。 
  • 枢密院「古谷久綱」 アジア歴史資料センター Ref.A06051170700