友常典膳
友常 典膳(ともつね てんぜん)は、唐津藩藩士。権大参事[1]。明治初頭に唐津に高橋是清を招き、唐津の近代化のきっかけを作った[2]。
概略
編集1830年前後の生まれ[1]。唐津藩の宿老(権大参事)として維新を迎え、藩校の洋学部創設に奔走し、米国帰朝後教官をしていた大学南校を辞職した東太郎(のちの高橋是清)を明治4年(1871年)に耐恒寮洋学舘の教官として月給百円賄付きで招聘した[3]。このとき典膳は是清歓迎の意に吉原遊郭で宴席を設けたが、是清にとってこれが吉原初体験となった[4]。
同年4月に廃藩置県で唐津藩は唐津県となり、11月には伊万里県に合併されたが、唐津の士族300人が不正に製紙事業の益金を分配したという密告により、明治5年(1872年)に典膳はじめ約30人が伊万里県に拘禁された[1][2][4]。責任を感じた典膳は切腹を図ったが、一命を取り止めた[1][2]。
耐恒寮洋学舘では、典膳の娘おたい、ふくの姉妹と曽禰達蔵の妹おようの3人を入学させ、いずれ彼女らを教員として女子英学校を興こす企画をしていたが、是清が上京中に先の騒動が起り、明治5年9月に廃校となった[3][4]。
明治22年(1889年)に次男の友常穀三郎に家督を譲った[5]。
親族
編集次男の友常穀三郎は文久2年 〈1862年〉7月、江戸の唐津藩邸で生まれる[6]。東京外国語学校、大学予備門で学び、明治法律学校、日本英学館で英語を教え、ワーゲンフー商社、フレザー商会など在日外国商社の支配人も務めた[7]。友垣紡績会社社長、九州商業銀行頭取、東肥鉄道社長、南信自働車取締役などを務めたほか、綿花輸入商を営み、神戸貿易商会を経営した[7]。1912年より3度栃木県選出衆議院議員(うち一度は選挙法違反で辞任)となり、立憲政友会に所属した[5][8]。
次女のおたい(安政5年〈1858年〉- 昭和15年〈1940年〉)は、耐恒寮の女子一期生の一人。高橋是清の世話で山口慎と結婚、6男5女をもうける。五男は三村起一(住友鉱業株式会社初代社長、石油資源開発初代社長、石油開発公団初代総裁)。
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b c d 公金4万両を掠取『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 上卷』(有恒社, 1934)
- ^ a b c 友常典膳佐賀県人名辞典、saga ebooks
- ^ a b 2.徳川幕府の教育方針と唐津藩の教育史『母校百年史』旧唐津小学校創立百周年記念事業実行委員会、昭和51年3月31日
- ^ a b c 『高橋是清自伝』千倉書房、1936年、p114-
- ^ a b 友常穀三郎『人事興信録. 第11版(昭和12年) 下』 (人事興信所, 1939)
- ^ 『現代日本の政治家: 全』國光社, 1916, p38
- ^ a b 友常穀三郞 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 議員退職『官報』1916年12月19日