原胤栄
原 胤栄(はら たねひで/たねよし、天文20年(1551年) - 天正17年12月5日(1590年1月10日)または天正18年6月6日(1590年7月7日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。千葉氏重臣・下総原氏宗家。なお、没日については2つの伝承がある。通説では原胤貞の嫡男とされているが、近年では庶子説・養子(胤貞の弟)説も出されている[1]。子には原胤義がいる。別名・十郎。官途名は式部大輔。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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官位 | 式部大輔 |
主君 | 千葉邦胤、北条直重 |
氏族 | 千葉氏族原氏宗家 |
父母 | 原胤貞 |
兄弟 | 原胤親 |
子 | 胤義 |
概要
編集元亀年間初めに胤貞の跡を継いで下総国生実城(現在の千葉市中央区)の城主となったが、天正2年(1574年)に原氏のもう一つの根拠であった臼井城(同佐倉市)へ移り、以後ここを拠点とした。原氏宗家当主として一族の統制を図ろうとするが、原親幹・胤長ら庶流の実力者達を抑えることは困難であった。加えて弟の原胤親[2]とは不仲で、当主千葉邦胤の許しを得て胤親の居城・手賀城(同柏市)に攻撃を加えた事もあったという。邦胤の死後は、北条氏政の子・直重を当主に迎え入れるが、これを主導したのも胤長であった。こうした背景からか原胤栄が中山法華経寺をはじめとする諸寺社を保護する命令を多く出している。
豊臣秀吉の小田原征伐の最中に死去、嫡男の原胤義が後北条氏の人質となっていたため、急遽原邦房が臼井城の城代に入ったという。
脚注
編集- ^ 黒田基樹は庶子説を採り、高橋健一は養子の可能性も考慮すべきと主張している。 佐藤博信「下総臼井・小弓城主原胤栄に関する覚書」(千葉城郭研究会 編『城郭と中世の東国』(高志書院、2005年 ISBN 4862150063)載録)より
- ^ 黒田基樹は胤親を原胤隆(胤栄の曾祖父)以前に分かれた庶流の人物とする説を提示している(黒田基樹『戦国期関東動乱と大名・国衆』戎光祥出版、2020年 ISBN 978-4-86403-366-4 P110-112.「手賀原氏」)。
参考文献
編集- 千野原, 靖方『下総原氏・高城氏の歴史〈上〉第1部 原氏』(初版)たけしま出版〈手賀沼ブックレット〉、2017年7月。ISBN 9784925111560。 NCID BB24945774。国立国会図書館書誌ID:028407485 全国書誌番号:22997090。
関連項目
編集外部リンク
編集- 小弓城 埋もれた古城
- 小弓城~城と古戦場~ - ウェイバックマシン(2016年3月5日アーカイブ分)
- 戦国武将列伝~下総原氏