生実城
生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北生実城・北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩の陣屋(生実陣屋)がおかれた。
生実城 (千葉県) | |
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生実城跡 | |
別名 | 北小弓城・北生実城・生実陣屋 |
城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 原氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 原氏、森川氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 空堀 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
位置 | 北緯35度33分59.0秒 東経140度08分45.0秒 / 北緯35.566389度 東経140.145833度座標: 北緯35度33分59.0秒 東経140度08分45.0秒 / 北緯35.566389度 東経140.145833度 |
地図 |
歴史
編集千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年(永正14年)に足利義明(小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に本項の城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられていた。
しかし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。また、小弓城(南生実城)が先に築城されたとする説は大正から昭和初期にかけて初めて登場しているものの、その根拠に明確な出典があった訳ではない、とする指摘もされるようになった。このため、北生実を本城、南生実を支城をとらえ、1509年(永正6年)に連歌師の柴屋軒宗長が入った小弓館や小弓御所も北生実にあったと考えるべきとする研究者もいる[2]。
16世紀に中頃に原氏は臼井城に進出して拠点を移すが、生実城は依然として原氏の重要な支城であり、千葉氏・後北条氏の勢力にとって里見氏に対抗する最前線の城であった[3]。永禄4年(1561年)と元亀2年(1571年)の2度、里見氏によって攻め落とされているが、そのたびに原氏が奪い返している[3]。
1590年(天正18年)に後北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入部すると、生実城にも徳川家の家臣が入った[3]。最初に城主となったのは西郷家員である。その後、1627年(寛永4年)に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩の藩庁とした。以後11代240年にわたって森川氏の支配が続いた。
構造
編集学園前駅入口から蘇我インターチェンジに抜ける県道沿いに位置する。標高20メートル前後の台地上に広がり、700-800メートル四方の規模である。
城の東部には、南北に掘られた空堀によって区画された大手口があり、県道の傍らに石碑が立っている。主郭は、北西部の角栄団地と呼ばれる住宅街の中にあったが、昭和40年代(1966年-1975年)の宅地開発により破壊されており、遺構は残っていない[5]。角栄団地内にある本城公園にかつての小字名が残り、千葉市の案内板が立てられている。
城内には、かつて御霊神社と呼ばれた生実神社があり、その西側に空堀が残っている。神社に隣接する飲食店のあたりが、近世に生実陣屋が置かれた郭である。
北生実上宿の交差点から南に入る道がかつてのバス通りで、森川藩の陣屋前に当たる。近世には町場が形成されており「町並」の小字がある。
画像
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大手口跡
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生実神社の空堀
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本城公園(角栄団地)
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陣屋跡
アクセス
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 「千葉市の文化財情報」千葉市公式HP
- ^ 簗瀬裕一「小弓公方足利義明の御座所と生実・浜野の中世城郭」『中世城郭研究』6号(2000年)/所収:滝川恒昭 編著『旧国中世重要論文集成 安房国 上総国』戎光祥出版、2022年 ISBN 978-4-86403-378-7 2022年、P329-358.
- ^ a b c 柴田龍司 1986, p. 434.
- ^ 「森川家累代の墓碑」千葉市公式HP
- ^ 柴田龍司 1986, p. 445.
参考文献
編集- 柴田龍司「戦国時代末期の城郭からみた権力構造 ―下総・原氏を中心として―」『千葉県教育振興財団研究紀要』第20号、千葉県教育振興財団、1986年 。