千葉伝蔵
4代 千葉 伝蔵(ちば でんぞう、1890年(明治23年)3月[1][2] - 1962年(昭和37年[3])12月29日[4])は、大正から昭和時代の政治家、実業家。青森県青森市長。青森県多額納税者[1][2]。前名は覚郎[2]。
経歴
編集白鳥鴻彰の三男として青森県東津軽郡荒川村(現青森市)に生まれる[3]。1909年(明治42年)青森中学校を卒業し日本大学、大原簿記学校、津田英文簿記学校に学んだ後、帰郷する[3]。青森市役所に奉職したのち1910年(明治43年)魚問屋・千葉家の養子となり、1919年(大正8年)前名を改め4代伝蔵を襲名した[3]。1920年(大正9年)青森製氷の創立に当たって出資し取締役に就任、1922年(大正11年)東京共同水産取締役となり東京隅田運送の取締役も務めた[3]。1924年(大正13年)青森銀行監査役兼取締役、1926年(大正15年)青森県海産物商協同組合長、1927年(昭和2年)青湾貯蓄銀行監査役、青森電燈会社監査役、青森汽船取締役など歴任し、1931年(昭和6年)から缶詰製造を始め、1933年(昭和8年)業界から推挙され青森缶詰製造同業組合長、焼竹輪組合長に就任した[3]。
政界では1928年(昭和3年)青森市会議員に当選し、1934年(昭和9年)同議長に就任[3]。1936年(昭和11年)まで3期連続当選した[3]。1932年(昭和7年)と1934年(昭和9年)には青森県会議員にも選ばれ、1936年(昭和11年)からは青森市長に3期連続当選し、1945年(昭和20年)薪炭事件により辞職するまで9年間市政を担当した[3]。市長在職中は三内霊園を造営し寺町の墓地を移転した[3]。戦後は、1946年(昭和21年)青森漁船組合長、1949年(昭和24年)青森魚市場社長、青森製氷社長を歴任[3]。1953年(昭和28年)からは日中ソ国交調整促進同盟会長、県北洋出稼組合連合会長、県水産振興会長などを務めた[3]。
栄典
編集- 勲章等
脚注
編集参考文献
編集- 帝国自治協会『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 東奥日報社 編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。ISBN 4885610656。