千畑古墳
千畑古墳(ちばたけこふん)は、宮崎県西都市穂北にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
千畑古墳 | |
---|---|
墳丘・後円部石室開口部 | |
所在地 | 宮崎県西都市大字穂北4787(字桜田) |
位置 | 北緯32度8分23.88秒 東経131度24分7.43秒 / 北緯32.1399667度 東経131.4020639度座標: 北緯32度8分23.88秒 東経131度24分7.43秒 / 北緯32.1399667度 東経131.4020639度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長60m 高さ4.5m(後円部) |
埋葬施設 |
後円部:両袖式横穴式石室 前方部:横穴式石室 |
築造時期 | 6世紀後半-末 |
史跡 | 国の史跡「千畑古墳」 |
地図 |
概要
編集宮崎県中部、一ツ瀬川北岸の茶臼原台地南裾の緩斜面上(標高約30メートル)に築造された古墳である。東約100メートルの台地裾斜面には千畑横穴墓群が分布する。江戸時代に石室内が発掘されている。
墳形は前方後円形で、墳丘主軸を東西方向として、前方部を東方向に向ける[1]。墳丘の段築は不明[1]。墳丘外表で葺石・埴輪は認められていない[1]。埋葬施設は後円部・前方部における横穴式石室各1基である。後円部石室は単室構造の両袖式の横穴式石室で、石室全長12.4メートルを測る大型石室でほぼ完存し、宮崎県内では鬼の窟古墳(西都市)・狐塚古墳(日南市)とともに最大級の規模になるとして注目される。前方部石室は破壊のため詳らかでない。またいずれの石室も副葬品は詳らかでない。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半-末(TK43型式期)頃と推定される[1]。一ツ瀬川対岸の西都原古墳群の鬼の窟古墳とともに、一ツ瀬川流域における巨石墳として注目される古墳になる。
遺跡歴
編集墳丘
編集墳丘の規模は次の通り[1]。
- 墳丘長:約60メートル
- 後円部
- 直径:約30メートル
- 高さ:4.5メートル
- 前方部
- 長さ:約30メートル
- 幅:約25メートル
- 高さ:2.5メートル
埋葬施設
編集埋葬施設としては、後円部・前方部において横穴式石室各1基が構築されている。
後円部石室
編集後円部石室は、両袖式横穴式石室で、南方向に開口する。玄室・羨道からなる単室構造の石室である。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:約12.4メートル
- 玄室:長さ約5.4メートル、幅2.8メートル(奥)・2.6メートル(前)、現在高さ2.8メートル
- 羨道:長さ約7メートル、幅約1.6メートル、現在高さ1.5メートル
石室は開口部の一部以外をほぼ完存する。石室の石材は砂岩塊石の割石で、羨道の一部には尾鈴山の閃緑岩転石を使用する。玄室の平面形は長方形。奥壁は大石の4段積みで、側壁は横位の腰石1段の上に4段積みで構築され、奥壁・側壁とも持ち送り強く内傾するが、前壁上部は垂直である。羨道は玄室の前壁ほぼ中央に接続し、途中から西側に屈曲する。天井石は、玄室では2枚、羨道では3枚。開口部付近には、閉塞石に使用された転石が散在する[1]。
-
玄室(奥壁方向)
-
玄室(開口部方向)
-
羨道(開口部方向)
-
羨道(玄室方向)
-
開口部
-
開口部前の転石
前方部石室
編集前方部石室は破壊されており、現在は石材が散乱した状態である。
文化財
編集国の史跡
編集- 千畑古墳 - 1934年(昭和9年)5月1日指定[3]。
脚注
編集参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(西都市教育委員会、1991年設置)
- 地方自治体史
- 「千畑古墳」『宮崎県史』 資料編 考古2、宮崎県、1993年。
- 「千畑古墳」『西都市史』 資料編、西都市、2015年。
- 事典類
- 「千畑古墳」『宮崎県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系46〉、1997年。ISBN 4582490468。
- 永友良典「千畑古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「千畑古墳」『国指定史跡ガイド』講談社。 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)
- 日高正晴「鬼の窟古墳についての考察」『西都原古墳研究所年報』第6号、西都市教育委員会、1990年。
- 柳沢一男「宮崎県の古墳資料(1)」『宮崎考古』第13号、宮崎考古学会、1994年。