勧修寺教豊
勧修寺 教豊(かじゅうじ のりとよ)は、江戸時代の公家(公卿)。
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 慶長15年(1610年) |
死没 | 慶長20年6月22日(1615年7月17日) |
官位 | 従五位上、右兵衛佐 |
主君 | 後水尾天皇 |
氏族 | 藤原北家高藤流甘露寺支流勧修寺家 |
父母 | 父:勧修寺光豊、母:太田一吉の娘 |
子 | 養子:経広 |
経歴
編集権大納言・勧修寺光豊の実子。母は、飛騨守・太田一吉(臼杵城主)の娘。室は無し。養子に、権大納言・勧修寺経広(実父は参議・坊城俊昌)。
父・光豊と第7代当主・教秀より1字ずつ取り、早くも実名(諱)として教豊を名乗る。しかし、慶長20年(1615年)に5歳という若さで早世。
系譜
編集関連項目
編集