加藤曳尾庵
江戸時代後期の文人、医師
加藤 曳尾庵(かとう えびあん/えいびあん、宝暦13年(1763年)- 没年不詳[1])は、江戸時代後期の文人、医師、俳諧宗匠。幼名は平吉、名は玄亀、南竹軒とも号した。
人物
編集宝暦13年、水戸藩士・沼田直充の三男として、水戸に生まれる[2][3]。20歳を過ぎて両親と共に江戸へ出府し、小石川の水戸藩上屋敷に入る[2]。天明8年(1788年)、26歳で水戸藩を致仕し、諸国へと遊歴[2][3]。
寛政8年(1796年)、再び江戸に戻る[3]。時期は明らかでないが、幕府奥医師の山本永春院に医術を学んでいたところ、文化2年(1805年)、下谷の医師・加藤玄悦の看板を買い、これより加藤姓を称した[3][4]。 江戸においては、大田南畝(蜀山人)が企画した、文人らによる古物・古画の鑑賞会である「雲茶会」の一員となり、南畝、山東京伝、山東京山、谷文晁らと交友を重ね、また曲亭馬琴、屋代弘賢、古筆了意らとも交流した[3][5][6]。文化12年(1815年)2月には、大黒屋光太夫に面会して終日ロシアの話を聞いたという[6]。
文化13年(1816年)、田原藩三宅侯の抱医師となり[3][7]、同藩の渡辺崋山とも交友[8]。文政2年(1819年)、田原藩を致仕し、その後は、板橋宿において手習いの師匠のかたわら医業を営んだ[3][8]。
著書として、江戸の世相風俗について記した日記風の随筆『我衣(わがころも)』19巻(文化8年/1811年成立)がある[3][9]。
脚注
編集参考文献
編集- 幸田成友「『我衣』とその著者」『読史余録』大岡山書店、1928年、108–117頁。NDLJP:1918123/71 。
- 三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典』(三省堂、改訂版,1990) ISBN 4385153221
- 久留島浩ら編『文人世界の光芒と古都奈良 大和の生き字引・水木要太郎』(思文閣出版、2009) ISBN 9784784214815