加藤明邦
近江水口藩の第7代藩主
加藤 明邦(かとう あきくに)は、近江水口藩の第7代藩主。水口藩加藤家11代。
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 文化5年6月29日(1808年7月22日) |
死没 | 安政3年11月2日(1856年11月29日) |
改名 | 亮之助(幼名)→明邦→紫艶(法号) |
別名 | 孫太郎(通称) |
戒名 | 天光院殿釋宗薫 |
墓所 | 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地 |
官位 | 従五位下、佐渡守、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 近江水口藩主 |
氏族 | 加藤氏 |
父母 | 父:加藤明允 |
兄弟 | 明邦、明遠 |
妻 | 正室:大久保忠真の娘 |
子 | 明軌(次男)、光禄(五男)、明世(六男)、明実(七男)、稲葉正凝(十二男、稲葉正邦養子)、娘(冷泉為行室)、娘(稲田植乗室) |
生涯
編集文化5年(1808年)6月29日、第8代藩主・加藤明允の長男として江戸で生まれる。文化12年(1815年)9月27日、父の死去により家督を継いで第9代藩主となる。文政6年(1823年)10月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月6日、従五位下佐渡守に叙任する。文政9年(1826年)7月26日に能登守に遷任した。藩政では百姓一揆や強訴が相次ぎ、その鎮圧に務めた。
文政7年4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。天保2年(1831年)2月2日、大坂加番を命じられる。弘化元年(1844年)には江戸城本丸修理に2500両を献上している。弘化2年(1845年)2月5日、次男の明軌に家督を譲って隠居する。その後は文化人として陶器作りや能楽・俳句などを嗜んだという。
安政3年(1856年)11月2日に死去。享年49。
系譜
編集父母
正室
- 泰 - 松平直寛の娘
側室
- 宮
- 岩
- 麻
- 志津
- 蔵
- 藤
- 糸
- 仲
- 千代
- 浪
子女
- 加藤明軌(次男)生母は宮(側室)
- 加藤光禄(五男)生母は蔵(側室)
- 加藤明世(六男)生母は千代(側室)
- 加藤明実(七男)生母は千代(側室)
- 稲葉正凝(十二男)稲葉正邦の養子、生母は千代(側室)
- 冷泉為行室、生母は岩(側室)
- 稲田植乗室、生母は生母は志津(側室)