加島屋 (豪商)
玉水町(現・大阪市西区江戸堀1丁目)の久右衛門家(広岡姓)と、大川町(現・大阪市中央区北浜4丁目)の作兵衛家(長田姓)の2系統があった。
久右衛門家(広岡姓)
編集概要
編集寛永の頃から御堂前町(現・大阪市中央区備後町3丁目)で米問屋を始め、両替商も兼営した。のちに「十人両替」に任命された。諸藩の蔵元・掛屋になり、大名貸で鴻池家と並び称された。明治維新には新政府に援助をするなどし加島銀行を設立したが昭和恐慌により廃業した。
『大同生命七十年史』(1973年)によると、加島屋を興した広岡家は村上源氏に連なる赤松家を遠祖とし、寛永2年(1625年)に大坂御堂前町で精米業を始めた広岡正教が初代・加島屋を名乗り、3代目が事業拡大をはかって両替店兼諸国取引米問屋を営み、4代目が大いに商才を発揮し、以後300年余り続く豪商加島屋の基礎を作ったとされる[1]。
2015年、加島屋が幕末に各地の藩に貸した金の借用書や広岡浅子の手紙など、約1万点の資料が奈良県橿原市の民家で発見された[2]。
関連項目
編集- 広岡久右衛門 - 歴代当主が名乗る名
- 第8代広岡久右衛門正饒
- 第9代広岡久右衛門正秋 - 明治初期の当主。加島銀行頭取、大同生命初代社長を務めた[3]。
- 第10代広岡久右衛門正直 - 正秋の娘婿。大同生命第三代社長を務めた。
- 広岡浅子 - 女性実業家。広岡信五郎(広岡久右衛門正秋の兄)の妻。
- 中川小十郎 - 文部官僚、立命館大学創立者。加島銀行理事を務めた。
作兵衛家(長田姓)
編集概要
編集寛永年間に大坂に移り、享保年間に米仲買となって玉水町に店を構えた。肥後藩蔵元掛屋、宇和島藩紙方蔵元掛屋を勤めた。天明年間頃に大川町に移転。その後も諸藩に貸付を行い、万延御用銀は鴻池、玉水町加島屋とともに最高額3000貫目を引き受けた。明治維新にて新政府の財政に協力し、維新を乗り切ったが、明治6年(1873年)、陸軍省預り金の即時上納を命ぜられて果たせず、倒産・閉店した[4]。
脚注
編集- ^ 謡曲、茶の湯…夫はのんきに大名暮らし 産経新聞、2015.5.13
- ^ 2015年11月6日、朝日新聞、社会38面「『あさがきた』モデル 広岡浅子 嫁ぎ先・加島屋 資料1万点発見」より。
- ^ なお、妻の夏は大川町加島屋9代目長田作兵衛政達の娘。
- ^ コトバンク「加島屋」
外部リンク
編集- 大同生命保険株式会社 - 加島屋久右衛門家の流れをくむ企業
- 加嶋屋長田家文書解題 (国文学研究資料館) - 加島屋作兵衛家に関する文書研究