出公(しゅっこう、生年不詳 - 紀元前452年頃)は、中国春秋時代の君主。姓は姫、名は鑿[1]

出公 姫鑿
公(周制における爵位は侯)
王朝
在位期間 紀元前475年 - 紀元前452年
都城 新絳
姓・諱 姫鑿
諡号 出公
定公

生涯

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晋の定公の子として生まれた。紀元前475年、定公が死去すると、後を嗣いで出公が晋公として即位した[2]紀元前471年、晋はと共同でに出兵し、廩丘を占領して撤退した[3]紀元前468年智瑶率いる晋軍がを攻撃した[4]紀元前454年、智瑶と范氏中行氏の領地を分割して自分たちの領地にした[5]紀元前453年、趙・魏・韓が智瑶を滅ぼした。紀元前452年、趙・魏・韓が智氏の領地を分割して自分たちのものとしたため、出公は激怒して斉や魯に三卿を討つよう求めた。三卿は恐れて出公を討ち、出公はに逃れた[6]昭公の曾孫の哀公が晋公として擁立された[2]

脚注

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  1. ^ 史記』晋世家による。『史記』六国年表は名を錯とする。
  2. ^ a b 『史記』晋世家
  3. ^ 『春秋左氏伝』哀公24年
  4. ^ 『春秋左氏伝』哀公27年
  5. ^ 『史記』趙世家
  6. ^ 楊寛『戦国史』(上海人民出版社,1955年)p.2の説。『史記』晋世家によると、出公は紀元前458年に斉に逃れたとされ、六国年表では紀元前457年のこととなるが、ここでは『竹書紀年』により出公がその23年に楚に逃れたとする記述を採用している。
先代
定公
君主
前475年 - 前452年
次代
哀公