内藤頼以
日本の高遠藩の藩主
内藤 頼以(ないとう よりもち)は、江戸時代後期の大名。信濃高遠藩の第6代藩主。高遠藩内藤家11代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 安永5年4月22日(1776年6月8日) |
死没 | 安政3年2月12日(1856年3月18日) |
改名 | 銀次郎(幼名)、勝友(初名)→頼以 |
墓所 | 東京都新宿区新宿の太宗寺 |
官位 | 従五位下、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 信濃国高遠藩主 |
氏族 | 板倉氏→内藤氏 |
父母 | 父:板倉勝矩、養父:内藤長好 |
兄弟 | 板倉勝長、頼以 |
妻 | 正室:稲葉正諶の娘 |
子 | 頼敦、頼容、頼寧 |
安永5年(1776年)、陸奥福島藩主・板倉勝矩の没後にその五男として生まれる。寛政3年(1791年)12月、高遠藩主内藤長好が嫡子をもうけぬまま死去したため、その養子となって家督を相続する。寛政4年1月27日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下大和守に叙任する。文化5年(1808年)6月24日、奏者番に就任する。文政2年9月16日、奏者番を辞任する。文政3年(1820年)に隠居し、三男・頼寧に家督を譲った。通称を左京亮に改め、後に静翁と号した。安政3年(1856年)没した。
系譜
編集父母
正室
- 松 ー 稲葉正諶の娘
子女