内藤忠行 (旗本)
内藤 忠行(ないとう ただゆき)は、江戸時代後期の旗本(寄合)。石高は5,000石。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化7年3月1日(1810年4月4日) |
死没 | 嘉永6年9月6日(1853年10月8日) |
改名 | 松平信志→内藤忠行 |
別名 | 恵之助(通称)、静山(号) |
戒名 | 宝叡院殿広誉静教忠山大居士 |
墓所 | 東京都文京区小石川の西岸寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
氏族 | 大河内松平氏→内藤氏 |
父母 |
父:松平信明、母:神原氏娘・利和 養父:内藤忠恒 |
兄弟 |
某、松平信順、篤之助、泉吉郎、 本庄道貫、松平信厚、津軽順承、某、 深井信恭、某、松平忠質、忠行、 大森頼実、阿部正瞭、松平孝、雅、栄、従、錦、厚、睦、庸 養兄弟:琴、満 |
妻 | 内藤忠恒娘 |
子 | 女子[1]、養子:忠善[2] |
生涯
編集文化7年(1810年)3月1日、三河吉田藩3代藩主・松平信明の十二男として江戸谷中の吉田藩下屋敷で生まれる。文政8年(1825年)2月20日に旗本内藤忠恒の婿養子となり、文政9年(1826年)6月27日に内藤家へ引越す。文政10年(1827年)2月15日に初めて将軍家斉に拝謁する。天保2年(1831年)に家督を相続し、天保7年(1836年)11月1日に火消役となる。天保12年(1841年)12月10日、病により御役御免となる。嘉永2年(1849年)7月29日に隠居し、養子忠善(美作津山藩主・松平康哉の四男松平維賢の五男)に家督を譲る。嘉永6年(1853年)9月6日に死去。享年44。
脚注
編集参考文献
編集- 『寛政譜以降旗本家百科事典』第4巻
- 『豊橋市史』第6巻