内藤元忠
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将
内藤 元忠(ないとう もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は毛利氏の重臣・内藤隆春[1]。母は内藤氏家臣・阿座上盛豊の娘[1]。一時期、林元尚の婿養子となって「林仁左衛門尉」と名乗ったが、兄・内藤元家の死に伴い、内藤家に戻って家督を継いだ[2]。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永2年5月2日(1625年6月6日) |
改名 | 内藤宮菊丸(幼名)→内藤元忠→林元忠→内藤元忠 |
別名 | 通称:平次郎→仁左衛門尉→左近允→左衛門尉 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤原北家秀郷流内藤氏→林氏→内藤氏 |
父母 |
父:内藤隆春、母:阿座上盛豊の娘 養父:林元尚 |
兄弟 | 女(益田藤兼継室)、河原殿(吉見広頼継室)、綾木大方(内藤元盛室→山内元如室)、女(湯二郎左衛門尉室)、奥林(勝間田就盛室)、女(三田吉右衛門尉室)、元家、元忠、親春 |
妻 |
正室:林元尚の娘 継室:村上景親の娘 |
子 | 林元助、元俊 |
生涯
編集毛利氏重臣・内藤隆春の次男として生まれ[1]、毛利輝元と秀就の二代に御手廻(側近)として仕える[2]。
林就長の弟である林元尚が嫡男のいないまま死去すると、元尚の一人娘と婚姻し、婿養子となって「林仁左衛門尉」と名乗った[2]。
慶長17年(1612年)6月15日、兄・内藤元家が嫡男のいないまま病死すると、外戚でもある内藤家が断絶することを憂えた輝元の計らいにより、元忠が内藤家に戻って元家の後を継いだ[1][2]。内藤家に戻った元忠は通称を「左近允」と改め、後に「左衛門尉」と名乗る[1]。なお、林家は元忠の嫡男である正助が継いでいる[2]。
元和3年(1617年)12月13日、秀就から諸役目についての法度を与えられる[3]。
寛永2年(1625年)5月2日に死去[1][2]。次男の元俊が14歳で後を継ぎ[2]、同年8月13日に長門国美祢郡伊佐村の内の1620石と阿武郡高佐村の内の180石の合計1800石を与えられている[4]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『萩藩閥閲録』巻99「内藤小源太」