内幌町
内幌町(ないほろちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
ないほろちょう 内幌町 | |
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廃止日 | 1949年6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 真岡支庁 |
郡 | 本斗郡 |
面積 | 404.46[1] km2. |
総人口 |
10,957人 (1941年12月1日) |
隣接自治体 |
本斗郡本斗町、好仁村 留多加郡能登呂村 |
内幌町役場 | |
所在地 | 樺太庁本斗郡内幌町 |
座標 | 北緯46度41分11秒 東経141度51分33秒 / 北緯46.6863度 東経141.8592度座標: 北緯46度41分11秒 東経141度51分33秒 / 北緯46.6863度 東経141.8592度 |
特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集歴史
編集- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により行政区画として内幌村が発足。本斗郡に所属し、真岡支庁本斗出張所が管轄。
- 1922年(大正11年)10月 - 管轄支庁が本斗支庁に変更。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により内幌村(二級町村)が発足。
- 1939年(昭和14年)11月16日 - 内幌市街で火災発生。罹災者124戸439名、死者2名、重軽傷者各1名で大通り商店街及び1条、2条通り市街が焼失。[3]
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 町制施行して内幌町(一級町村)となる。
- 1942年(昭和17年)11月 - 管轄支庁が真岡支庁に変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日内幌町廃止。
町内の地名
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地域
編集教育
編集以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[5]。
- 樺太公立気主国民学校
- 樺太公立内幌第一国民学校
- 樺太公立内幌第二国民学校
- 樺太公立上内幌国民学校
- 樺太公立奥内幌国民学校
出身者
編集脚注
編集- ^ 市町村別日本国勢総攬 下卷(帝国公民教育教会 1938年)
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実 p.285
- ^ 『椎内川』(樺太内幌会編 昭和60年)p. 11
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1686
- ^ “故 田本憲吾 第六代帯広市長お別れの会を行います”. 帯広市 (2023年4月21日). 2023年8月29日閲覧。
- ^ “元帯広市長、田本氏の告別式で功績偲ぶ 350人以上が参列”. 十勝毎日新聞 (十勝毎日新聞社). (2023年4月4日) 2023年8月28日閲覧。