八田三郎 (内務官僚)
日本の内務・警察官僚
八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月[1] - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選鳥取県知事、陸軍司政長官。旧姓・和田[1]。
経歴
編集三重県出身。和田綱紀の三男として生まれ、八田一精の養子となる[1]。第八高等学校を卒業[2]。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し群馬県属となる[1][2]。
以後、地方警視・大阪府警察部勤務、地方事務官・長崎県勤務、香川県書記官・学務部長、秋田県書記官・警察部長、奈良県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、拓務書記官・警務課長、茨城県書記官・警察部長、長野県書記官・経済部長、奈良県総務部長、岡山県総務部長などを歴任[1][3]。
1940年12月3日、鳥取県知事に就任。戦時体制の整備に尽力[3]。1942年1月9日、依願免本官となり退官した[4]。同年3月7日、第25軍軍政部付・ネグリセンビラン州知事、兼パハン州知事(同年5月11日まで)に就任[5]。同月17日、陸軍司政長官に発令され[6]、終戦を迎えた[5]。東京裁判における岡田資の日本人弁護団の一人となる[7]。
栄典
編集- 勲章