俵田明
俵田 明(たわらだ あきら、1884年(明治17年)11月13日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の経営者、宇部興産創立者、同社社長[1][2]。
来歴・人物
編集山口県宇部市出身。勘兵衛の二男[2]。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。
興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し[1]、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。戦後は石炭化学事業、ナイロン原料事業進出などを手掛け、同社の業容を大きく発展させた。
また、化学工業統制会設立委員、化学工業統制会および石炭工業統制会会長選考委員、NHK経営委員会委員、日独伊親善協会会員、日本経営者団体連盟常任理事、経済団体連合会常任理事、中国電力取締役などの役職を歴任している。
1948年(昭和23年)、石炭国管問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[3]。
1958年(昭和33年)3月21日死去。享年73。
なお、宇部市内の恩田運動公園に併設された宇部市俵田翁記念体育館は、宇部興産創立60周年記念事業として俵田を顕彰する目的で同社が建設し、宇部市に寄贈したものである。体育館としては宇部市内最大規模を誇り、1963年(昭和38年)と2011年(平成23年)に国民体育大会の会場となったほか、大規模なスポーツ大会に使用されている。
俵田家と音楽
編集俵田家は親類に属澄江、属啓成らの音楽家がおり、また俵田寛夫が宇部好楽協会の初代会長を務めるなど、クラシック音楽への関りが深かった。俵田寛夫はユーディ・メニューインや、ヨゼフ・シゲティ、アルフレッド・コルトーといった一流の音楽家を自邸へ招待し、渡辺翁記念会館にて演奏会を開いていた。宇部市出身の元日本電気専務の新田謙治郎は八幡製鐵を訪問した際に、八幡製鐵の部長から「音楽で宇部の俵田家、美術で倉敷の大原家は羨望の的だった」と言われたという[4]。宇部市では2008年度より日本フィルハーモニー交響楽団によるチャリティーコンサートが開催されている(主催:宇部興産 共催:渡辺翁記念文化協会、宇部好楽協会)。
略系図
編集明には息子がおらず、娘・初枝の夫・属寛夫(さっか・ひろお)が結婚を機に俵田家の婿養子となって俵田姓を継ぎ、後に宇部興産の副社長を務めている。また、寛夫の義弟(妹・澄江の夫)に音楽評論家の属啓成がいる。
寛夫と初枝の間には4男1女がおり、娘(明の孫)の万理子は衆議院議員で後に大蔵大臣を務めた林義郎に嫁ぎ、その息子・芳正(明の曾孫)は現在衆議院議員を務めている。息子のうちの一人である武は元内大臣の木戸幸一の孫にあたる知子と結婚し、木戸家の婿養子となっている。
脚注
編集- ^ a b 俵田 明とは コトバンク。2018年5月8日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第15版 下』補遺23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月8日閲覧。
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第62号 昭和23年9月25日
- ^ 『ふるさとの想い出』http://mic.itconsult.co.jp/tk/tk109-nitta.htm
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 日本工業倶楽部『日本の実業家 : 近代日本を創った経済人伝記目録』日外アソシエーツ、東京、2003年8月。ISBN 978-4816917899。
- 俵田翁伝記編纂委員会『俵田明伝』宇部興産、宇部、1962年。ASIN B000JAJ9NU。
関連文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集ビジネス | ||
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先代 渡辺剛二 |
宇部興産社長 第3代:1942年 - 1958年 |
次代 中安閑一 |