佐藤功一
建築家
佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日[1])は、日本の建築家[2]。
佐藤功一 | |
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生誕 |
大越 功一 1878年(明治11年)7月2日 栃木県下都賀郡小金井村 |
死没 |
1941年6月22日(62歳没) 東京市小石川区 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学工科大学建築学科 |
職業 | 建築家 |
建築物 |
大隈講堂 日比谷公会堂・市政会館 |
早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる[2]。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した[2]。
作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している[2]。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった[3]。
経歴
編集- 1878年(明治11年) 7月 栃木県小金井村(現・下野市)に大越東七郎の次男として出生(はじめは大越姓、1908年から佐藤家の養子になる)[4]
- 栃木県尋常中学校、錦城中学校卒業
- 1896年(明治29年)第二高等学校卒業
- 1903年(明治36年)東京帝国大学工科大学卒業、三重県技師
- 1908年(明治41年) 6月 宮内省内匠寮御用掛
- 1909年(明治42年) 1月 早稲田大学から派遣され、欧米を視察(翌年まで)
- 1910年(明治43年) 9月 早稲田大学に建築科開設、講師(翌年、教授)
- 1917年(大正6年)柳田國男と共に古民家保存を目的とする「白茅会」を発足。今和次郎らが参加。
- 1919年(大正8年) 6月 工学博士を授与される
- 1921年(大正10年) 9月 東京女子高等師範学校講師
- 1923年(大正12年)11月 帝都復興事務嘱託
- 1925年(大正14年)4月 日本女子大学校教授
- 1929年(昭和4年)8月 大礼記念京都美術館建築委員会委員[5]
- 1941年(昭和16年)6月 逝去。墓所は染井霊園。
主な作品
編集佐藤の作品であることが確認されている物件は223件あり、2か月に1件のハイペースで設計していた計算になる[3]。
名称 | 年 | 所在地 | 状態 | 指定 | 備考 |
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明治記念新潟県立図書館 [6] | 1915年 | 新潟県新潟市 | 現存せず | ||
日本女子大学樟渓館 | 1926年 | 東京都文京区 | |||
早稲田大学大隈記念講堂 | 1927年 | 東京都新宿区 | 重要文化財 | ||
岩手県公会堂 | 1927年 | 岩手県盛岡市 | 登録有形文化財 | ||
鶴舞公園普選壇 | 1928年 | 愛知県名古屋市昭和区 | |||
武蔵大学大講堂 | 1928年 | 東京都練馬区 | 練馬区登録文化財 | ||
群馬県庁舎 | 1928年 | 群馬県前橋市 | 登録有形文化財 | ||
日比谷公会堂・市政会館 | 1929年 | 東京都千代田区 | 東京都指定有形文化財 | ||
米子市庁舎 | 1930年 | 鳥取県米子市 | |||
群馬会館 | 1930年 | 群馬県前橋市 | 登録有形文化財 | ||
宮城県庁舎 | 1931年 | 宮城県仙台市 | 現存せず | 1986年(昭和61年)解体。 | |
津田塾大学 | 1932年 | 東京都小平市 | 東京都選定歴史的建造物 | ||
旧足立正別邸 | 1933年 | 神奈川県葉山町 | 登録有形文化財 | ||
神田神社本殿 | 1934年 | 東京都千代田区 | 登録有形文化財 | 共同設計:大江新太郎 | |
山陽記念館 | 1935年 | 広島市中区 | 現存せず | 現頼山陽史跡資料館。被爆建物として部材の一部(テラコッタ製の手すり)のみ保存。 | |
栃木県庁舎(4代目) | 1938年 | 栃木県宇都宮市 | 一部現存 | 正面部分のみ切り取り曳家、「昭和館」として保存活用。 | |
滋賀県庁舎[7] | 1939年 | 滋賀県大津市 | 登録有形文化財 | ||
日本赤十字社広島支部病院 | 1939年 | 広島市中区 | 現存せず | 1990年11月取り壊し。被爆建物として一部のみ保存。 |
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岩手県公会堂
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鶴舞公園普選壇
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群馬県庁舎
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日比谷公会堂
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山陰歴史館(旧米子市庁舎)
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群馬会館
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宮城県庁舎
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神田明神
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昭和館(旧栃木県庁舎)
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滋賀県庁舎
著書
編集単著
編集- 『新編家事参考書』冨山房、1930年7月。
- 『住宅建築衛生篇』早稲田大学出版部〈佐藤・住宅建築講座 第1篇〉、1931年3月。
- 『住宅の知識』社会教育協会〈婦人講座 第33篇〉、1932年12月。
- 『匠房雑話』東宛書房〈学芸随筆 第3巻〉、1938年5月。
編集
編集共著
編集- 佐藤功一、木村幸一郎『住宅の平面計画』洪洋社〈建築資料叢書 13〉、1927年11月。
全集
編集出典
編集- ^ “佐藤功一博士訃報”. 東京新聞夕刊: p. 2. (1941年6月24日)
- ^ a b c d 「建築家・佐藤功一と都市への視線、あるいは近代の視線」『東京都江戸東京博物館研究報告』第2号。
- ^ a b c 岡田 2003, p. 130.
- ^ “佐藤功一 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2019年10月15日閲覧。
- ^ 美術研究者『日本美術年間』国書刊行会、1942年。
- ^ 田辺泰,猪野勇一『佐藤功一博士』彰国社。
- ^ 「近江の近代建築7選 ヴォーリズだけじゃない ② 県庁舎本館 どっしり構える存在感」朝日新聞2009年11月18日付朝刊、滋賀版27ページ