伊達宗綱 (岩ヶ崎伊達家)

仙台藩主伊達政宗の五男

伊達 宗綱(だて むねつな)は、江戸時代初期の陸奥国仙台藩一門・岩ヶ崎伊達家初代当主。栗原郡岩ヶ崎要害主。

 
伊達宗綱
時代 江戸時代初期
生誕 慶長8年(1603年
死没 元和4年5月28日1618年7月20日
改名 卯松丸(幼名)、宗綱
別名 摂津(通称
戒名 華屋浄蓮
墓所 仙台市の松音寺
陸奥仙台藩
氏族 伊達氏
父母 伊達政宗愛姫
兄弟 秀宗五郎八姫忠宗宗清津多
亘理宗根宗泰宗綱宗信宗高
牟宇姫、竹松丸、宗実岑姫宗勝
千菊姫
宗信
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生涯

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慶長8年(1603年)、仙台藩初代藩主・伊達政宗の五男(第6子)として伊達家江戸屋敷にて誕生した。正室・愛姫との間の第3子。幼名は卯松丸。

生母の愛姫は、この年2月に5歳の虎菊丸(嗣子の忠宗)を伴って京都伏見の伊達屋敷より江戸の伊達屋敷へ下向し、居を移していた。卯松丸と名付けられ、守役として茂庭綱元が、乳母には小野方が任ぜられる。同じ年、江戸屋敷では側室の於山方が六男の吉松丸(宗信)を産んでいる。

慶長18年(1613年)12月19日、卯松丸が養育されていた茂庭綱元宅に父・政宗が出向いて卯松丸の元服を命じ、宗綱(通称は摂津)と名付けた。のち、政宗より陸奥国栗原郡岩ヶ崎3万石を与えられ、岩ヶ崎要害主となる。

元和元年(1615年)5月18日、大坂夏の陣で大坂に在陣中の政宗より、大坂落城の事や宗綱への病灸療を心配する手紙が、宗綱の乳母の小野方に届く。宗綱はこの頃、病に罹り、御灸による治療を受けていた。

元和元年(1615年)9月21日、江戸で毛利家から出火した火事により、伊達の上下屋敷が類焼し焼け落ちる。仙台に戻っていた政宗より、江戸在住の宗綱へ火事の労いの手紙が届く。

元和2年(1616年)12月14日、仙台より江戸に到着。守役の茂庭綱元と共に、父の政宗に御目見、御太刀と馬代を献上する。この日、伊達秀宗も伊達屋敷に訪れる。同月16日には、仙台より伊達宗清が伊達屋敷に到着する。同月24日、江戸城に兄の伊達宗清と共に江戸城に登城し、2代将軍・徳川秀忠に拝謁する。

元和4年(1618年)5月8日、宗綱は病を患い、守役の茂庭綱元は、宗綱の病気療治と医師の義について、政宗に伺いを出した。同月14日、政宗より綱元のもとに宗綱の様体を心配する文が届く。政宗はこの頃、奥筋御歴覧のため、18日に仙台を出発して桃生郡、磐井郡、気仙郡、江刺郡、胆沢郡、栗原郡、玉造郡、加美郡を巡っていて、22日仙台に戻った。25日、政宗は宗綱の屋敷を巳の刻(午前10時)に訪れて病状を見舞い、子の刻(午後12時)に仙台城に戻った。

元和4年(1618年)5月28日、伊達宗綱は病により私邸に於いて没す。享年16。法名華屋浄蓮と号す。五峯山松音寺に葬る。家臣の橋本三吉が殉死する。このとき、父政宗は早すぎる宗綱の死を悲しみ、哀悼の和歌を捧げた。

  • 幼(いと)けなき 人は見果ぬ 夢かとよ 現(うつつ)に残る 老の身ぞうき
  • 散るとても 御法(みのり)をうくる 花の船 浮(うか)びていたる 汀(みぎは)なるらん

宗綱に子はいなかったため、異母弟の宗信が岩ヶ崎を継いだ。

元和4年(1618年)6月4日、茂庭綱元は幼少より宗綱の守役として養育して来たので、悲観に耐えられず、出家して、紀州高野山に家臣4名と登り、菩提を弔いたい、ことを政宗に請願した。政宗は、百箇日過ぎたら仙台に戻ることを条件に、石川昭光伊達成実連名の書状を送り、請願を許した。この後、綱元は入道して了庵高吽と名乗り、紀州高野山に赴く時に政宗より和歌を賜った。

  • 行くとても 茂る木陰の 涼しくは 夏きにけらし 立帰りこん
  • 行くもぬれ 残るもしほる 袖の上に 留めもやらぬ 夕月のかけ

了庵(綱元)は、高野山に3年逗留し、心のままに宗綱の菩提を弔い、弔修の誠を尽くしたという。

参考文献

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先代
岩ヶ崎伊達家
初代
次代
伊達宗信