京都宝塚会館
京都市中京区にあった映画館(1935-2006)
(京都宝塚劇場から転送)
京都宝塚会館(きょうとたからづかかいかん)は、かつて京都府京都市中京区河原町六角に所在していた東宝系の映画館(京都宝塚劇場、京都スカラ座)の総称である。略称は「京宝会館」(きょうほうかいかん)。
京都宝塚劇場・スカラ座 Kyoto Takarazuka Theater & Scala-za | |
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京都宝塚劇場があった京都宝塚会館 | |
情報 | |
通称 | 京宝会館、ステイトサイド・シアター |
正式名称 | 京都宝塚会館 |
完成 | 1935年 |
開館 | 1935年10月 |
開館公演 | 宝塚少女歌劇花組『花詩集』 |
閉館 | 2006年1月29日 |
最終公演 |
七人の侍(宝塚劇場) 街の灯(スカラ座) |
収容人員 | (2館合計)1,095人 |
設備 | ドルビーデジタルサラウンドEX、DTS |
用途 | 映画上映 |
運営 | 東宝ビル管理株式会社 |
所在地 |
〒604-8031 京都市中京区河原町通三条下ル大黒町58 |
アクセス | 地下鉄東西線京都市役所前駅、京阪三条駅、阪急京都河原町駅から徒歩7分 |
歴史
編集- 1935年10月 - 京都宝塚劇場としてオープン。当初は実演と映画の上映の二本立てであった。こけら落しは宝塚少女歌劇花組『花詩集』。座席数は1,452。
- 1936年11月17日 - 京都大学オーケストラと大阪コーラルソサエティなどによる『交響曲第9番 (ベートーヴェン)』の演奏会が行われ、2,800人を動員する[1][2]。
- 1942年 - 戦時統制により設立された社団法人「映画配給社」により“紅系”に指定される。当時の写真によれば、松竹大船撮影所が制作し同年7月9日に封切られた中村登監督作『男の意気』[3]が上映されていたことが確認出来る[4]。
- 1946年1月 - GHQにより接収となり[5]、館名も「ステイトサイド・シアター」となる。日本人は観客としての出入りが禁止された[6]。
- 1952年7月 - 接収解除。洋画ロードショー劇場として再オープン。
- 1956年8月 - 増築により洋画封切館の京都スカラ座がオープン。座席数は802。同時に「京都宝塚会館」という総称を与えられた。
- 1962年11月 - 京都宝塚劇場が東宝邦画系封切館となる。
- 1971年7月 - リニューアルオープン。
- 2005年9月 - 近隣のシネマコンプレックス(隣接するMOVIX京都と二条駅前のTOHOシネマズ二条)に客足を奪われ、さらに建物の老朽化もあり、閉館を発表。
- 2006年1月28日・29日 - 「街(かわらまち)の灯よ、ありがとう」と題したラストショーを京極東宝とともに開催し、70年間の歴史に幕を下ろした。最終上映作品は『七人の侍』『街の灯』であった。また、高知市にあった同じ東宝系の映画館「高知東宝1・2・3」も同じ日に閉館している。
- 2008年4月25日 - 京都宝塚会館跡地に複合商業ビル「ミーナ京都」がオープンした。
各館の特徴
編集※座席数は閉館時のもの。
ギャラリー
編集出典
編集- ^ “これまでの歩み”. 大阪コーラルソサエティ. 2014年12月9日閲覧。
- ^ “関西におけるベートーヴェン《第九》演奏会”. 大阪音楽大学100年記念事業. 学校法人大阪音楽大学. 2014年12月9日閲覧。
- ^ 男の意気 - 日本映画データベース
- ^ a b “戦前期日本の映画館写真(4) 京都編”. NFCデジタル展示室. 東京国立近代美術館 (2014年4月8日). 2014年12月9日閲覧。
- ^ “東宝(株)『東宝五十年史』(1982.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団情報資源センター. 2020年1月25日閲覧。
- ^ “京都シネスポット「京都宝塚劇場」”. 京都新聞 (京都新聞社). (1999年10月8日). オリジナルの2016年3月5日時点におけるアーカイブ。 2014年12月9日閲覧。
- ^ 『写真集 映画黄金期 小屋と名作の風景 下巻』国書刊行会、1989年