井上和男
井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2011年6月26日[2])は、神奈川県小田原市出身の日本の映画監督。
いのうえ かずお 井上 和男 | |
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生年月日 | 1924年12月27日 |
没年月日 | 2011年6月26日(86歳没) |
出生地 | 神奈川県 小田原市 |
出身地 | 日本 神奈川県 |
死没地 | 東京都 板橋区[1] |
職業 | 映画監督 |
備考 | |
映画 『野を駈ける少女』 『予科練物語 紺碧の空遠く』 『生きてはみたけれど 小津安二郎物語』 劇団 『こゆるぎ座』 |
来歴
編集神奈川県小田原市出身。神奈川県立小田原中学校(現・神奈川県立小田原高等学校)をへて早稲田第一高等学院に入る、1944年3月学徒応召し海軍飛行少尉に任官。1945年8月復員、早稲田大学商学部に入る。在学中に小田原で劇団こゆるぎ座を創立し劇作家を目ざす[3]。
1948年に大学を卒業し、松竹大船撮影所脚本部に入る[2]。新藤兼人に師事し、その勧めで助監督試験を受け、12月に助監督となる(松山善三と同期)。渋谷実、川島雄三、小津安二郎『東京物語』で助監督を務める[3]。
1955年、京都映画『父と子と母と』で監督を務め、1958年松竹大船の監督に昇進する。桑野みゆきの初主演『野を駆ける少女』で正式デビュー。監督6作目の『予科練物語・紺碧の空遠く』(1960年)は航空自衛隊の協力を得た映画で、1960年4月12日の衆議院内閣委員会では日本社会党の石橋政嗣が朝日新聞の報道を引く形で「自衛隊員の行進を見ていた元特攻隊員の人物が駆けだしていくというラストカットを除去させたのではないか」と取り上げ、防衛庁の政府委員は「はなはだこちらの協力した意図するところと違うので、松竹側に対して不満を申し出た」「松竹側が自発的にその部面を削った」と答弁している[4]。『水溜り』『熱愛者』で馬場当とともに「松竹ヌーヴェルバーグ」の先駆けとされる[2]。『水溜り』にて、倍賞千恵子と渥美清の初共演監督となっている[5]。
1964年松竹専属を解いてフリーとなる。1965年、東宝・ワーナー・ブラザース合作『勇者のみ』の日本側監督を務める。1965年東京映画と契約し、東宝喜劇を撮ったあと1968年にフリーに戻る。同年、日本万国博覧会の大阪ガスパビリオン映像監督となる[3]。
1971年、映像制作の独立プロ・蛮友社を設立[2]。1972年に『小津安二郎・人と仕事』を出版、没後20年の1983年に、松竹・ドキュメンタリー映画『生きてはみたけれど・小津安二郎伝』の脚本・監督を手がけた[2]。長年にわたり小津の著作編集を行い、内外にわたる小津作品研究の導きとなった。
テレビでは1969年の『どっこいしょ』(東海テレビ放送)などのドラマに携わり、また東京宝塚劇場、明治座、新橋演舞場など舞台の脚本・演出も手がける。最後に関わった映画作品は小林旭監督による『春来る鬼』(1989年)[6]の製作だった。
製作
編集監督
編集※会社名の記載のないものは松竹での制作。
- 父と子と母(1956年、京都映画)
- 野を駈ける少女(1958年)
- 明日をつくる少女(1958年)
- ハイ・ティーン(1959年)
- 暁の地平線(1959年)
- 予科練物語 紺碧の空遠く(1960年)
- 悪の華(1961年)
- 水溜り(1961年)
- 熱愛者(1961年)
- 無宿人別帳(1963年)
- 「可否道」より なんじゃもんじゃ(1963年)
- 勇者のみ(1965年9
- 喜劇 各駅停車(1965年、東京映画)
- 新・事件記者 大都会の罠(1966年、東京映画)
- 新・事件記者 殺意の丘(1966年、東京映画)
- 喜劇 駅前学園(1967年、東京映画)
- 喜劇 駅前探検(1967年、東京映画)
- 湯けむり110番 いるかの大将(1972年、東京映画)
- 喜劇 黄綬褒章(1973年、東京映画)
- 生きてはみたけれど 小津安二郎物語(1983年)
テレビドラマ
編集編著
編集- 『小津安二郎・人と仕事』同刊行会編、蛮友社、1972年。新版・小津安二郎学会、2022年
- 『小津安二郎作品集』全4巻、立風書房、1983-84年、再版1993年
- 『陽のあたる家 小津安二郎とともに』松竹映像出版監修、フィルムアート社、1993年
- 『小津安二郎全集』3冊組(上・下+別巻冊子)、新書館、2003年。ISBN 978-4403150012
脚注
編集- ^ a b “井上和男監督死去 衝撃の予科練生ボタン”. 日刊スポーツ. (2011年6月29日) 2023年6月9日閲覧。
- ^ a b c d e “井上和男氏が死去”. 文化通信. (2011年7月1日) 2020年6月21日閲覧。
- ^ a b c “アジアセンターODAWARA第2回映画サロン” (PDF). アジアセンター小田原 (1996年9月28日). 2023年6月14日閲覧。
- ^ 第34国会 衆議院内閣委員会 第27号 昭和35年4月12日 - 国会会議録検索システム
- ^ 「私の履歴書 倍賞千恵子」『日本経済新聞 東京朝刊』日本経済新聞社、2023年12月6日、44面。
- ^ 『日本映画人名事典 監督篇』
- ^ 映画『生きてはみたけれど』撮影時の録音テープを書籍化。映画本編はダイジェスト版。