久留島通祐

日本の江戸時代中期~後期の大名。豊後森藩5代藩主久留島光通五男で、森藩6代藩主。従五位下信濃守。大番頭・二条城及び大坂城の城番・伏見奉行を歴任

久留島 通祐(くるしま みちすけ)は、江戸時代中期の大名豊後国森藩6代藩主。官位従五位下信濃守

 
久留島通祐
久留島通祐像(安楽寺蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文3年(1738年
死没 寛政3年8月10日1791年9月7日
改名 栄之助、通祐
戒名 泰清院
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
豊後森藩
氏族 久留島氏
父母 久留島光通、小澤氏
兄弟 通祐山崎義俊通同青木一新正室、
渡辺信綱継室、高井綽房室、
青木直美正室、久留島通高室、
高井綽房養女ら
太田資俊
通同
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略歴

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5代藩主・久留島光通の五男として誕生(七男、九男との説もある)。幼名は栄之助。

宝暦元年(1751年)11月3日、9代将軍徳川家重にお目見えする。明和元年(1764年)11月16日、父の死去により家督を継ぐ。同年閏12月18日、従五位下信濃守に叙任する。安永5年(1776年)2月15日、大番頭に就任した。二条城大坂城の城番を命じられた。天明5年(1785年)12月27日、伏見奉行となる。このとき、伏見の窮民を助け、天明8年の内裏炎上では、その後の普請などで活躍した。藩政においては桑原在学を登用して文教奨励政策に尽力し、後の藩校・修身舎開校の基礎を築いた。しかし、嗣子に恵まれず、弟の通同を養嗣子に迎えて後継者とした。

寛政3年(1791年)8月10日、54歳で死去した。法号は泰清院。

系譜

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父母

正室

養子