久宮祐子内親王
祐子内親王(さちこないしんのう、1927年〈昭和2年〉9月10日 - 1928年〈昭和3年〉3月8日)は、日本の皇族。昭和天皇と香淳皇后の第2皇女子。諱は祐子(さちこ)、御称号は久宮(ひさのみや)[1]。第125代天皇(現上皇明仁)や常陸宮正仁親王らの姉であり、第126代今上天皇・秋篠宮文仁親王らの伯母にあたるが、姉の照宮成子内親王(東久邇成子)を除き、弟妹はいずれも久宮の薨去後に誕生している。
祐子内親王 | |
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続柄 | 昭和天皇第2皇女子 |
全名 | 祐子(さちこ) |
称号 | 久宮(ひさのみや) |
身位 | 内親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1927年9月10日 日本・東京府東京市赤坂区 赤坂離宮 |
死去 |
1928年3月8日(0歳没) 日本・東京府東京市赤坂区 赤坂離宮 |
埋葬 |
1928年3月13日 日本・東京都文京区大塚 豊島岡墓地 |
父親 | 昭和天皇 |
母親 | 香淳皇后 |
生涯
編集誕生
編集1927年(昭和2年)9月10日午前4時42分、赤坂離宮において昭和天皇と香淳皇后の第2子、第2皇女子として誕生[2]。身長50.8センチメートル、体重3300グラム[3]。
御七夜の9月16日、午前9時の浴湯の儀の後、午前11時の命名の儀において「久宮」「祐子」と命名された[4][5]。この御称号と名は吉田増蔵らによって選定された三つの候補から、父・昭和天皇が選んだものである[3]。由来は『易経』。後朱雀天皇第三皇女と同字、また同第一皇女の名は「良子」で、久宮の母・香淳皇后と同字であった。守り刀は月山貞一の作[3]。同年12月17日、香淳皇后が大正天皇の権殿へ拝礼する際、姉の照宮成子内親王(当時)とともに宮城(皇居)を訪れた[6]のが、はじめての外出となる[7]。
発病と薨去
編集母后自ら母乳を与え、順調に発育しており、1928年(昭和3年)3月3日には初節句を、特に諒闇あけという状況もあり盛大に祝う予定であった。天皇・皇后は30種のひな菓子を用意し、香淳皇后の実家である久邇宮家からは内裏びな、その他に宮妃となった明治天皇皇女たち[注釈 1]からも贈り物が用意された[8]。
しかし2月27日朝、突如高熱が生じた[9]。予てからの湿疹も症状が悪化し、また右顎下リンパ腺の腫れも認められ[9]、咽喉カタルと診断された[10]。初節句の祝いは延期され、皇后・侍医らが付きっきりで看病した。発病が公表された3月1日時点では医師らは「ご心配申し上げるほどではない」との認識であり、3月3日に熱が下がった際も、数日中に全快するという見通しだった。
ところが、3月4日午後9時に再び熱が39度台まで上昇すると、午後9時には重態となる[9]。この時点で、敗血症の疑いが濃厚となった[11]。皇后は女官共々徹夜で看病にあたるようになる。なお同時期に天皇も発熱したが、これは風邪によるものだった。5日午後には体調が回復したかに見えたが、6日の朝以降、再び高熱が続く[9]。同日の地久節(皇后誕生日)の行事も中止され、さらに深夜までに熱海滞在中の久邇宮夫妻にも帰京が要請された。
7日午後4時に敗血症との合併症であるとの確診に至る[9]。そして翌3月8日午前3時30分に危篤となると[9]、同日午前3時38分、赤坂離宮において薨去[12]。満0歳(満5ヶ月28日)、数え年2歳の短い生涯だった。
その後、演芸放送や陸軍記念日行事などが自粛された。皇室喪儀令の規定は、同17条により7歳未満の久宮には適用されず、3月13日に簡素な葬儀が行われ、豊島岡墓地に埋葬された[13][14]。喪主は、皇后宮太夫河井彌八が務めた[15]。3月19日に至り、天皇皇后は第一皇女の照宮を伴い3人で豊島岡墓地を訪れ、久宮の墓所に拝礼した[16]。
香淳皇后は悲しみから、その後しばらく久宮と同じ重さの人形を抱いたという。また、皇后は慶福会(現:社会福祉法人恩賜財団慶福育児会)に下賜金を与え、同会はこれを基に「故久宮祐子内親王記念兒童保護資金」として乳幼児保護のために、外地を含む全国各地の施設に助成を行った[17]。
没後の回想
編集当時満2歳だった姉の照宮成子内親王(当時)は、満13歳の1939年(昭和14年)9月10日の日記で、この日が「久ちゃんの誕生日」だと振り返り、生後半年を迎えたばかりの末妹・清宮貴子内親王の成長に期待する内容を記している[18]。
昭和天皇は、久宮の薨去後半世紀以上経過した1980年(昭和55年)8月、那須御用邸での取材に対し、皇太子明仁親王・同妃美智子(いずれも当時)が、内廷皇族として初めて手元で子女を養育したとされることについて、
「皇居に移ってからも子供と一緒に暮らしました。そのひとつの例として[注釈 2]、久宮が危篤の折、私がちょうど風邪をひいて熱を出していました。私は病を押して久宮を見舞ったことが出来たということがあります。こういうことができたということは、屋根の下で一緒に暮らしたからだと私は思います」
と振り返り、自身も手元で子女を養育したことを説明した[19]。
系譜
編集祐子内親王 | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
曾祖母: 柳原愛子 | |||
祖母: 貞明皇后 |
曾祖父: 九条道孝 | ||
曾祖母: 野間幾子 | |||
母: 香淳皇后 |
祖父: 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) | |
曾祖母: 泉萬喜子 | |||
祖母: 俔子 |
曾祖父: 島津忠義 | ||
曾祖母: 山崎寿満子 |
脚注
編集注釈
編集- ^ 竹田宮妃 昌子内親王・北白川宮妃 房子内親王・朝香宮妃 允子内親王・東久邇宮妃 聡子内親王の4名。祐子内親王の大おばにあたる。
- ^ 昭和天皇は遷御後として回想しているが、宮城(皇居)へ遷御したのは1928年(昭和3年)9月14日のことであり、久宮薨去時は赤坂離宮で同居している。
出典
編集- ^ 宮内省図書寮 編 『皇室略牒.昭和13年』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 昭和2年宮内省告示第15号(『官報』号外、昭和2年9月10日)(NDLJP:2956672/26)
- ^ a b c 1928年(昭和3年)3月8日 朝日新聞「お傷わしき御一生 御誕生より御7ケ月目 桃の節句も御むなしく」
- ^ 昭和2年宮内省告示第17号(『官報』号外、昭和2年9月16日)(NDLJP:2956677/18)
- ^ 『官報』号外「宮廷録事」、昭和2年9月16日(NDLJP:2956677/18)
- ^ 当時、昭和天皇一家は赤坂離宮で生活していた
- ^ 1927年(昭和2年)12月17日 朝日新聞「きょう久宮様はじめて宮城へ」
- ^ 1928年(昭和3年)2月25日 朝日新聞「お喜び一入深き 久宮様初のお節句 両陛下にも両内親王殿下に、ひな30種を御買上」
- ^ a b c d e f 『官報』号外「宮廷録事」、昭和3年3月8日(NDLJP:2956817/18)
- ^ 1928年(昭和3年)3月2日 朝日新聞「久宮内親王御不例 咽頭カタルと拝診さる」
- ^ 1928年(昭和3年)3月6日 朝日新聞(夕刊)「久宮祐子内親王殿下 御重態に陥らせらる」
- ^ 昭和3年宮内省告示(『官報』号外、昭和3年3月8日)(NDLJP:2956817/18)※告示番号なし
- ^ 昭和3年宮内省告示(『官報』第357号、昭和3年3月9日)(NDLJP:2956818/3)※告示番号なし
- ^ 『官報』第361号「宮廷録事」、昭和3年3月14日(NDLJP:2956822/5)
- ^ 『官報』第358号「宮廷録事」、昭和3年3月10日(NDLJP:2956819/4)
- ^ 聖徳余影発行所 編『今上陛下聖徳余影』聖徳余影発行所、1928年。全国書誌番号:44018983。 p.113-114(NDLJP:1033509/61)
- ^ 慶福会 編『事業概要 昭和5年度』慶福会、1930年。全国書誌番号:46085580。 p.33(NDLJP:1447297/33)
- ^ 編集委員:北條誠、酒井美意子、霜山操子『皇女照宮』秋元書房、1973年7月。ASIN B000J9GT2U。
- ^ 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文藝春秋〈文春文庫〉、1988年3月。ISBN 978-4167472016。 p.290