久保竜彦

日本のサッカー選手

久保 竜彦(くぼ たつひこ、1976年6月18日 - )は、福岡県朝倉郡筑前町出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。元日本代表

久保 竜彦
名前
愛称 タツ、ドラゴン
カタカナ クボ タツヒコ
ラテン文字 KUBO Tatsuhiko
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-06-18) 1976年6月18日(48歳)[1]
出身地 福岡県朝倉郡筑前町
身長 181cm[1]
体重 73kg[1]
選手情報
ポジション FW(CF)
利き足 左足
ユース
1989-1991 日本の旗 筑前町立三輪中学校[1]
1992-1994 日本の旗 筑陽学園高校[1]
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-2002 日本の旗 サンフレッチェ広島 183 (67)
2003-2006 日本の旗 横浜F・マリノス 83 (26)
2007 日本の旗 横浜FC 8 (1)
2008-2009 日本の旗 サンフレッチェ広島 27 (3)
2010-2011 日本の旗 ツエーゲン金沢 50 (15)
2013-2015 日本の旗 廿日市FC
通算 351 (112)
代表歴2
1998-2006[2] 日本の旗 日本 32 (11)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月31日現在。
2. 2006年5月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

人物

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高い跳躍力とスピードを持つフォワード[3]

派手なプレースタイルとは裏腹に試合中以外は基本的に寡黙・謙虚で、どんな質問でも「よかったです」「嬉しかったです」などと答えることが多くインタビュアー泣かせだが、知名度が上昇するにつれ、その朴訥としたキャラクターも周囲に認知され人気の一因となった[4]

家族は妻との間に二女がいる[5]。長女の久保柚季もサッカー選手で、日本女子サッカーリーグアンジュヴィオレ広島に在籍経験がある。次女の久保杏夏はテニスプレイヤーである。

来歴

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プロ入り前

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地元筑前町で幼い頃から自然と遊びの中で野球をしており、ショートサードを守っていた右打者だった[6]読売ジャイアンツのファンで、篠塚和典の守備センスに憧れていた[6]

小学3年生の時、遊具で遊んでいた最中に小指を骨折してしまったことが転機となった[6]グラブをはめられないことから、小学校4年生[4][7] の時サッカーをやり始めるとハマり、野球を辞め本格的にのめり込んでいった[6]。当時からの同級生に大場啓[8]。中学入学後もサッカーを続けたが、当時の久保に誰もサッカーの基礎を教えなかった[6]。1992年、吉浦茂和の指導力の評判を聞きつけ、大場と共に筑陽学園高校へ入学する[6]。吉浦は久保の今後を思いその潜在能力を潰さないよう、最低限の技術や戦術を指導した[6][9]。高校当時のポジションは左MF[4]。1993年高校2年の時にJリーグが開幕し、当時はラモス瑠偉に憧れた[4]。同高校2年の時、高校選手権福岡県決勝に進出するも、小島宏美山下芳輝らを擁する東福岡高校に敗れている[6]。個人としては、高校2年時と3年時に福岡県選抜として国体に出場したことが唯一の全国大会での成績である[6][7]

高校卒業後もサッカーを続けるつもりだった[8]。大学からオファーがあったものの家庭の財政状況から進学を諦め就職するつもりだったが、より高いレベルで続けさせたい吉浦の強い薦めにより同級生である大場と共にサンフレッチェ広島F.Cのテストを受ける[8][9]。全国的に無名な久保にはJリーグチームのどこからもオファーがなく、吉浦と広島の中村重和スカウトが知り合い[注 1]だったことからテストを受ける運びとなった[8]

サンフレッチェ広島

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1995年、広島へ加入[注 2]。加入当初MF登録であったが1年目に河内勝幸サテライトチーム監督にFWへコンバートされる[8]。2年目、ビム・ヤンセンはエースFWの高木琢也の控えFWとして、あるいは久保をトップ下に入れて同時起用した。黄金世代の1世代上で年代別代表経験のない久保は無名な存在だったが、一部関係者にはこのころから評価されていた[10]

1997年、広島の監督がエディ・トムソンに替わると高木の怪我による欠場もあり、レギュラーを掴みかける[8]。若手時代、久保のピッチ外の生活態度が良くなく、これを心配した総監督の今西和男に結婚を勧められ、同年7月に当時付き合っていた高校の同級生と結婚する[8]

1998年、高木が移籍すると広島のエースとして定着する。2001年、ヴァレリー・ニポムニシが目指した攻撃サッカーでは中心選手として活躍[11]、公式戦全試合に出場している。 2002年末、広島はJ2に降格し、移籍を決意する。この際横浜F・マリノスFC東京東京ヴェルディ1969大分トリニータジュビロ磐田名古屋グランパスエイトが獲得に乗り出す[12] も、完全移籍前提での話となったことから横浜FMと磐田に絞られた[13]

横浜F・マリノス

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2003年、横浜F・マリノスへ移籍[14]。一気にブレイク、Jリーグにおいて群を抜く攻撃力を示し年間優勝に貢献し、日本年間最優秀選手賞受賞。2年目の2004年からはタイトなスケジュールのせいもあって怪我に泣かされ、コンディションを崩し、安貞桓にスタメンを譲る機会が多かった。要所で活躍し、存在感を示したがシーズン終盤は腰痛の悪化でサントリーチャンピオンシップなどは欠場した。2005年後半には徐々に体調も良くなり、リーグ公式戦や天皇杯に出場、クラブではリーグ戦10試合出場で2005年シーズンを終えた。[3][9]

日本代表

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1998年、フィリップ・トルシエサッカー日本代表監督に就任するとその初試合となる同年10月の対エジプト戦に初選出初キャップを飾り、以降もアジアカップなど度々選出された[15] が、ゴールを決める事はできなかった。 2002年、2002 FIFAワールドカップを控えた5月に、高原直泰西澤明訓の離脱[16] に伴い欧州遠征メンバーに入り、本大会出場の可能性も残したが、限られた出場機会ではアピールが伴わず、14試合無得点のままW杯メンバーから外れた。 のちに、トルシエの性格や指導法が嫌で、仮病で代表合宿を断るなどしていた事を明かした。

2003年、ジーコ代表監督のもと代表復帰。序列では下位の控えのFWだったが、2004年2月18日の2006 FIFAワールドカップ・アジア予選のオマーン戦で途中出場すると、引き分け濃厚な後半ロスタイムに勝ち越しゴールを奪い勝利に貢献[3][9]。ところがこの時の鹿島での代表合宿中に、小笠原満男に連れられ8人で無断外出が発覚、ジーコの逆鱗に触れ次の召集から外されることとなった[17]。それでも無断外出をした8名の中ではいち早く復帰を許され、同年4月の欧州遠征にメンバー入りするとハンガリー戦とチェコ戦、翌月のアイスランド戦で、3試合連続となる計4得点を決め一気にジーコの信頼を獲得。代表のエースFWとして起用されるようになると、約1年間で12試合8得点という結果を残した。しかしその後腰痛が悪化し、プレーに支障をきたすためリハビリを行うことになり、アジアカップやW杯アジア最終予選を回避するなど長期離脱を余儀なくされた。

2006年になると再び招集されるものの、慢性的な腰痛・足首痛で体調は万全とは言えなかった[18]。ジーコ体制では18試合出場でチーム最多の11ゴールという結果を残し、ジーコもW杯に向けた世界へのコメントで「久保と言うストライカーに注目して欲しい」と発信するなど、エースとして期待を集めていたものの、持病の腰痛はついに改善されず本大会メンバーから落選。代わりに土壇場の強化試合で勝負強さを見せた巻誠一郎が選ばれた[19]。以降代表に選出される事は二度となかった。

現役晩年

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2007年、奥大介が横浜FMを退団し横浜FCへ移籍。久保には横浜FMからの残留要請があったもののこれを拒否し、奥と行動を共にする形で横浜FCへ移籍した[20]。前年のW杯を怪我で棒に振った事を惜しむ声が多い中で迎えた浦和レッズとの開幕戦で、度肝を抜く超ロングシュートを決め、久保待望論を大きくさせた。またこのゴールの際に見せた喜びの舞が『ひょっとこダンス』と話題になる。しかしこの活躍は単発的なものに過ぎず、シーズン通じて怪我が多く、リーグ戦は序盤の8試合に出場したのみで、得点もその1点のみに終わり、シーズン終了後、戦力外通告を受ける[21]。またこの1点は結果的に、久保がJ1で決めた最後のゴールとなった。

2008年、古巣・広島へ6年ぶりに復帰[注 3]。体調は万全ではなく、出場した試合全てが途中出場だったものの、要所で活躍しJ1昇格に貢献した。翌2009年は公式戦2試合途中出場したのみで、チームの若返り方針や李忠成の補強に伴い、戦力外通告を受ける[22]

2010年、ツエーゲン金沢へ完全移籍した[1]。広島時代のコーチだった上野展裕が監督に就任しており早い段階からオファーを受けていたことと、出場機会を得たかったための移籍だった[23]。主力として活躍するも2年連続でJ2昇格が叶わず上野は監督を退任、久保も構想外となった[24]

金沢退団後は移籍先を探し、JFL、県地域リーグ、タイのクラブなどからオファーがあったものの、現役引退を決断した[25]

廿日市FC・その後

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引退後のあいさつ回りをする中で今西の斡旋により、2012年広島県廿日市市にある特定非営利活動法人廿日市スポーツクラブのストライカー養成コーチ、およびアンバサダー(スポーツ親善大使)に就任した[26][27]。また同年にはスポーツ振興くじ(toto)陶器メーカー・TOTOとのコラボによるCM「トートートトト」に出演している[28]

2013年3月28日、当時広島県社会人サッカーリーグ1部に所属する廿日市FCで現役復帰したが、2015年シーズンをもって現役からは退き、広島県内各地で巡回指導を行っている[29]

2018年に「都会暮らしになじめなかった」「景色が気に入った」との理由で山口県光市室積に移住[30][31][32]。室積でカフェを開き、牛島を使った塩コーヒーを淹れている。なお、久保自身も牛島で塩づくりをしていたが、COVID-19パンデミックのために渡船を控えている状況とのことである[32][33]

評価

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前の試合で、彼は素晴らしいプレーを見せてくれました。彼こそ日本サッカー界の宝石。日本のファンは、彼という存在を持った事を幸せに思うでしょう。 — 柏レイソル監督・ニカノール、1996年、[10]
1996年6月26日ヤマザキナビスコカップ第4節第2試合対柏レイソル戦にて、試合後ニカノールは記者会見で誰も質問していないのにこうコメントした。当時二十歳の久保は第1試合には出場したがこの第2試合には出場していない。[10]
久保も面白い武器。彼の自己表現のなさの謎がようやく解けた。それは彼は1230年に生まれて、ずっと冷凍されて、ある日突然見つけられました。だからまだ現代文明のコミュニケーションに慣れていないんです(笑)。 — 日本代表監督 フィリップ・トルシエ、2002年、[34]
2002年3月27日のポーランド代表との親善試合後、トルシエにより代表に召集されて4年目でのコメント。
タカ(高原直泰)は90分間で勝負するFW。それに対してクボは、一瞬で何かを起こすタイプだ。スピードがあり、空中戦に強い。間違いなく日本でトップレベルのFWだと思う。 — チェコ代表DFトマーシュ・ウイファルシ、2004年、[3]
2004年4月28日親善試合対サッカーチェコ代表が行われ、久保のゴールで日本が勝利した。ハンブルガーSVで高原とチームメイトだったウイファルシはその試合で久保のマークを担当した。
FWでも、日本人同士ではそんなに差がないと思うんですよ。(中略)。でも、突出しているのは久保さんぐらいで、あとはそんなに変わらないと思うんです。 — ガンバ大阪FW:大黒将志、2004年、[35]
大黒はこの時点では日本代表に呼ばれておらず、翌2005年久保が怪我で欠場していた中で大黒は日本代表で結果を出し、2006年W杯出場メンバーとなる。
ワールドカップのメンバーを23人に絞り込むのは、本当に大変な作業だった。連れていきたい選手は、もっとたくさんいたからね。ワールドカップで見てみたい選手もいた。たとえば久保だ。彼の左足は、大げさでなくワールドクラスだよ — 日本代表監督:ジーコ、2006年、[36]
2006年のドイツ・ワールドカップで日本は1分け2敗でグループリーグ敗退に終わり、ジーコは日本代表監督を退任したフェネルバフチェの監督となった。戸塚啓がトルコのイスタンブールへ彼を訪ねると、ジーコの方から久保に話題を向けてきたという[36]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 広島 - J 0 0 - 0 0 0 0
1996 22 2 10 4 3 0 35 6
1997 10 22 7 5 1 2 0 29 8
1998 32 12 3 0 3 2 38 14
1999 J1 25 13 4 1 0 0 29 14
2000 24 11 3 0 2 1 29 12
2001 30 15 6 4 2 0 38 19
2002 28 7 0 0 4 2 32 9
2003 横浜FM 9 25 16 4 0 2 1 31 17
2004 19 4 0 0 0 0 19 4
2005 10 1 1 0 2 4 13 5
2006 29 5 4 3 2 1 35 9
2007 横浜FC 8 1 1 0 0 0 9 1
2008 広島 39 J2 25 3 - 2 1 27 4
2009 J1 2 0 0 0 0 0 2 0
2010 金沢 9 JFL 27 9 - 2 0 29 9
2011 23 6 - 2 0 25 6
2013 廿日市 広島県1部 -
2014 -
通算 日本 J1 276 94 41 13 22 11 339 118
日本 J2 25 3 - 2 1 27 4
日本 JFL 50 15 - 4 0 54 15
日本 広島県1部 -
総通算 351 112 41 13 28 12 420 137

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2004 横浜FM 9 4 2
2005 2 0
通算 AFC 6 2

その他の国際公式戦


個人タイトル

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代表歴

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  • 代表初出場 1998年10月28日 対エジプト戦 (親善試合・途中出場)[2]
  • 代表初得点 2003年12月4日 対中国戦 (東アジア選手権)[2]

出場大会など

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試合数

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  • 国際Aマッチ 32試合 11得点 (1998年 - 2006年)[2]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1998 1 0
1999 1 0
2000 5 0
2001 2 0
2002 5 0
2003 3 2
2004 9 6
2005 0 0
2006 6 3
通算 32 11

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1998年10月28日  大阪府 長居陸上競技場   エジプト ○1-0 フィリップ・トルシエ キリンチャレンジ
2. 1999年09月08日  神奈川県 横浜国際総合競技場   イラン △1-1 キリンチャレンジ
3. 2000年06月06日  カサブランカ   ジャマイカ ○4-0 ハッサン2世杯
4. 2000年06月11日  宮城県 宮城スタジアム   スロバキア △1-1 キリンカップ
5. 2000年06月18日  神奈川県 横浜国際総合競技場   ボリビア ○2-0 キリンカップ
6. 2000年08月16日  広島県 広島広域公園陸上競技場   アラブ首長国連邦 ○3-1 キリンチャレンジ
7. 2000年10月20日  ベイルート   カタール △1-1 アジアカップ
8. 2001年06月10日  神奈川県 横浜国際総合競技場   フランス ●0-1 コンフェデレーションカップ
9. 2001年07月04日  大分県 大分スポーツ公園総合競技場   ユーゴスラビア ○1-0 キリンカップ
10. 2002年03月27日  ウッジ   ポーランド ○2-0 国際親善試合
11. 2002年04月17日  神奈川県 横浜国際総合競技場   コスタリカ △1-1 キリンチャレンジカップ
12. 2002年04月29日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   スロバキア ○1-0 キリンカップ
13. 2002年05月02日  兵庫県 御崎公園球技場   ホンジュラス △3-3 キリンカップ
14. 2002年05月14日  オスロ   ノルウェー ●0-3 国際親善試合
15. 2003年12月04日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   中華人民共和国 ○2-0 ジーコ 東アジア選手権
16. 2003年12月07日  埼玉県 埼玉スタジアム2002   香港 ○1-0 東アジア選手権
17. 2003年12月10日  神奈川県 横浜国際総合競技場   韓国 △0-0 東アジア選手権
18. 2004年02月07日  茨城県 茨城県立カシマサッカースタジアム   マレーシア ○4-0 キリンチャレンジカップ
19. 2004年02月12日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   イラク ○2-0 国際親善試合
20. 2004年02月18日  埼玉県 埼玉スタジアム2002   オマーン ○1-0 ワールドカップ予選
21. 2004年04月25日  ザラエジェルツェグ   ハンガリー ●2-3 国際親善試合
22. 2004年04月28日  プラハ   チェコ ○1-0 国際親善試合
23. 2004年05月30日  マンチェスター   アイスランド ○3-2 国際親善試合
24. 2004年06月01日  マンチェスター   イングランド △1-1 国際親善試合
25. 2004年06月09日  埼玉県 埼玉スタジアム2002   インド ○7-0 ワールドカップ予選
26. 2004年09月08日  コルカタ   インド ○4-0 ワールドカップ予選
27. 2006年02月10日  サンフランシスコ   アメリカ合衆国 ●2-3 国際親善試合
28. 2006年02月18日  静岡県 静岡県小笠山総合運動公園スタジアム   フィンランド ○2-0 キリンチャレンジカップ
29. 2006年02月22日  神奈川県 横浜国際総合競技場   インド ○6-0 アジアカップ予選
30. 2006年02月28日  ドルトムント   ボスニア・ヘルツェゴビナ △2-2 国際親善試合
31. 2006年03月30日  大分県 大分スポーツ公園総合競技場   エクアドル ○1-0 キリンチャレンジカップ
32. 2006年05月13日  埼玉県 埼玉スタジアム2002   スコットランド △0-0 キリンカップ

ゴール

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# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2003年12月4日 日本   中国 ○2-0 東アジアサッカー選手権2003
2.
3. 2004年2月18日   オマーン ○1-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
4. 2004年4月25日 ハンガリー   ハンガリー ●2-3 親善試合
5. 2004年4月28日 チェコ   チェコ ○1-0
6. 2004年5月30日 イングランド   アイスランド ○3-2
7.
8. 2004年6月9日 日本   インド ○7-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
9. 2006年2月18日   フィンランド ○2-0 キリンチャレンジカップ2006
10. 2006年2月22日   インド ○6-0 AFCアジアカップ2007 (予選)
11.

脚注

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注釈
  1. ^ 1982年、双方ともJSL選抜(日本B代表)に選ばれている。
  2. ^ 同期は大木勉山根巌吉村光示西田吉洋萩野英明、三浦和俊、水田月満、玉田真人
  3. ^ 完全移籍で広島を退団してもう一度加入した2人目の選手。ちなみに、完全移籍で退団した選手が再加入した初のケースは上野優作(01年完全移籍・06年のレンタル移籍を経て07年完全移籍)。
出典
  1. ^ a b c d e f 久保竜彦選手 ツエーゲン金沢へ完全移籍合意のお知らせ』(プレスリリース)J's GOALサンフレッチェ広島F.C)、2010年1月7日http://www.jsgoal.jp/official/00094000/00094858.html2014年12月13日閲覧 
  2. ^ a b c d “久保 竜彦”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/tatsuhiko_kubo.html 
  3. ^ a b c d 久保竜彦「サムライの流儀」”. Sports Graphic Number603号 (2004年6月3日). 2017年6月24日閲覧。
  4. ^ a b c d ドイツW杯特集 「日本代表インタビュー」”. スポーツニッポン (2006年4月14日). 2008年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  5. ^ 元日本代表FW久保竜彦、新たな挑戦に密着 - 『バース・デイ』(TBSテレビ
  6. ^ a b c d e f g h i #assist200812、32頁
  7. ^ a b 青き夢にかける”. デイリースポーツ (2001年8月8日). 2004年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g #assist200812、33頁
  9. ^ a b c d 不屈のドラゴン。久保竜彦インタビュー”. あっと九州 (2004年12月). 2008年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  10. ^ a b c #assist200805、9頁
  11. ^ 浸透ヴァレリー流 第2Sの軌跡”. 中国新聞 (2001年11月27日). 2001年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  12. ^ 久保、他球団と交渉日程調整”. 中国新聞 (2002年12月29日). 2004年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  13. ^ 久保、横浜Mと交渉”. 中国新聞 (2002年12月30日). 2004年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  14. ^ 久保、横浜Mへの移籍決定 磐田、広島と熟考の末”. 47NEWS (2003年1月13日). 2012年4月7日閲覧。
  15. ^ 脱皮 潜在能力生かせるか”. 西日本新聞 (2002年2月21日). 2012年4月7日閲覧。
  16. ^ レアル・マドリード×日本”. Masujima Stadium (2002年5月7日). 2012年4月7日閲覧。
  17. ^ 無断外出で8人除外 サッカー日本代表”. 47NEWS (2004年3月19日). 2012年4月7日閲覧。
  18. ^ 久保が腰痛を再発 サッカー日本代表に影響も”. 47NEWS (2006年3月8日). 2012年4月7日閲覧。
  19. ^ 「完ぺきに戦える」23人 サッカーW杯代表決定”. 47NEWS (2006年5月15日). 2012年4月7日閲覧。
  20. ^ 久保が横浜FCに移籍 サッカー元日本代表”. 47NEWS (2007年1月16日). 2012年4月7日閲覧。
  21. ^ 久保に戦力外通告 横浜FC”. 47NEWS. 2012年4月7日閲覧。
  22. ^ 久保と来季契約せず 球団意向”. 中国新聞 (2009年11月27日). 2012年4月7日閲覧。
  23. ^ ピッチ上 続く情熱 ツエーゲン金沢 久保竜彦”. 中日新聞 (2010年1月7日). 2012年4月7日閲覧。
  24. ^ サッカー 久保竜彦さんが現役引退”. 日本放送協会 (2012年4月7日). 2012年4月7日閲覧。
  25. ^ 〈気高きドラゴン、栄光と葛藤の日々〉久保竜彦「自分でしょぼいと思ったら終わりよ」”. Sports Graphic Number806号 (2012年7月5日). 2012年6月21日閲覧。
  26. ^ 久保竜彦(サッカー元日本代表・通称ドラゴン)さんとアンバサダー契約をしました。”. 廿日市スポーツクラブ. 2012年4月8日閲覧。
  27. ^ 『育将・今西和男』 次週より連載スタート!”. スポルティーバ (2015年7月11日). 2015年8月2日閲覧。
  28. ^ トートートトト
  29. ^ 引退したドラゴン・久保が語るサッカー界の“久保ブーム”「久保建英君を見てジーコを思い出した」”. 週プレNEWS (2017年5月8日). 2018年11月16日閲覧。
  30. ^ レジェンドと呼ばれる”元サッカー日本代表”が田舎町で不便暮らし! 移住を決意した”驚きのワケ””. テレビ東京 (2021年1月9日). 2021年6月15日閲覧。
  31. ^ 旅しよ!室積半島 (山口県光市)”. 朝日新聞 (2021年4月9日). 2021年6月15日閲覧。
  32. ^ a b 栗原正夫 (2021年6月13日). “ドラゴンがカフェでいれる“塩コーヒー” 山口県で第2の人生を歩む久保竜彦のいま”. スポーツナビ. 2021年6月15日閲覧。
  33. ^ “久保竜彦氏 現役時代に嘘ついて代表辞退 理由はあの監督が「大っ嫌いだったから」”. スポーツニッポン. (2018年11月4日). https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/11/04/kiji/20181104s00002000437000c.html 2018年11月16日閲覧。 
  34. ^ ポーランド戦後 トルシエ監督会見”. スポーツナビ (2002年3月27日). 2012年4月7日閲覧。
  35. ^ 大黒将志インタビュー”. Sports Graphic Number (2004年11月18日). 2006年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月7日閲覧。
  36. ^ a b “久保竜彦の忘れられない左足一閃。あのチェコ戦が今も心に残る理由。”. Sports Graphic Number. https://number.bunshun.jp/articles/-/843325?page=3 2020年6月28日閲覧。 

参考資料

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  • 中野和也「'08復帰、加入、新戦力の9人」『ASSIST』、産興Tj HIROSHIMA編集室)、2008年5月、6-9頁、2012年4月7日閲覧 
  • 中野和也「あの頃、僕は」『ASSIST』、産興(Tj HIROSHIMA編集室)、2008年12月、31-34頁、2012年4月7日閲覧 

関連項目

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外部リンク

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