中野宗助
中野 宗助(なかの そうすけ、1885年(明治18年)7月20日[1] - 1963年(昭和38年)3月2日[1])は、日本の剣道家。段位は範士十段。流派は鉄仲流[2]。
なかの そうすけ 中野 宗助 | |
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生誕 |
1885年7月20日(明治18年) 福岡県 |
死没 | 1963年3月2日(昭和38年) |
墓地 | 來光寺(福岡県久留米市田主丸町) |
記念碑 | 來光寺境内 |
国籍 | 日本 |
職業 | 剣道家(剣術家) |
流派 | 鉄仲流 |
肩書き |
大日本武徳会剣道範士 全日本剣道連盟剣道十段 |
経歴
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1885年(明治18年)、福岡県に生まれる[注 1]。彼の生家は貧しかったが、故郷筑後国田主丸(現久留米市田主丸町)に道場を構え、地元青少年に剣道を指南していた剣道家にして教育者、吉瀬善五郎(きちぜ・ぜんごろう)が道場主を務める武徳館(現在、田主丸町大字豊城の武徳館跡地には記念碑が建立されている)に幼くして入門し、師吉瀬善五郎の指導の下で厳しい修練を積み、剣道家としてその才能を大きく開花させた。 吉瀬家との交流は、師善五郎の没後も、自らの死の時まで続く。
1898年(明治31年)、長崎県の高尾鉄叟(鉄仲流)に入門。
行余学舎を卒業後、大日本武徳会武術教員養成所を卒業。
1906年(明治39年)、大日本武徳会本部剣道科助手に就任。
1910年(明治43年)、大日本武徳会から剣道精錬証を授与される。
1911年(明治44年)、大日本武徳会武道専門学校助教授に就任。
1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。橋本統陽を破ったが堀田徳次郎と植田平太郎に敗れリーグ戦敗退した。
1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会特選試合に出場し、斎村五郎との試合を披露。
1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会特選試合に出場し、持田盛二との試合を披露。
太平洋戦争後、警察や高校の剣道師範を歴任する。
1957年(昭和32年)、全日本剣道連盟から剣道十段を授与される。
1963年(昭和38年)、死去。享年77。
現在、中野宗助の記念碑が田主丸町田主丸の來光寺(真宗大谷派)境内に建つ。その碑銘は、彼にとって終生の好敵手であり続けた、同じ福岡県人でもある斎村五郎(さいむら・ごろう)十段の揮毫による。
中野宗助は、同寺の吉瀬家墓地に隣接する、中野家累代墓に眠っている。