中林友信
日本の政治家 (1871-1928)
中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日[1](1871年3月23日) - 昭和3年(1928年)2月18日[2])は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。
経歴
編集大阪府泉北郡東陶器村岩室(現在の堺市南区)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を経て、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業[1]。1895年(明治28年)より破産管財人を務める[1]。
泉北郡会議員、大阪府会議員を経て、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で5回を数えた。
大阪盲人学校を創設して校長を務め、また大阪府教育会副会長に就任した[2]。
その他、東京自由通信社主幹、日刊近畿新聞社社長などを歴任した[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1936年。