下東郷村
下東郷村(しもとうごうむら)は、鹿児島県の北西部、薩摩郡に属していた村。
しもとうごうむら 下東郷村 | |
---|---|
廃止日 | 1957年4月1日 |
廃止理由 |
分割編入 下東郷村 → 高城村、東郷町、川内市 |
現在の自治体 | 薩摩川内市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 鹿児島県 |
郡 | 薩摩郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 18.36 km2. |
総人口 |
4,328人 (1950年) |
隣接自治体 | 川内市、阿久根市、高城村、東郷町 |
下東郷村役場 | |
所在地 |
〒895 鹿児島県薩摩郡下東郷村大字田海1556番地[1] |
座標 | 北緯31度51分53秒 東経130度19分16秒 / 北緯31.864667度 東経130.321028度座標: 北緯31度51分53秒 東経130度19分16秒 / 北緯31.864667度 東経130.321028度 |
特記事項 | 面積は『川内市史 下』[1]、人口は『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』345頁に基づく |
ウィキプロジェクト |
1957年4月1日に下東郷村のうち大字田海の一部が高城村及び東郷町にそれぞれ分割編入され、残部が川内市に編入されたのに伴い、自治体としては消滅した[2]。
地理
編集川内平野の北部、川内川の下流域に位置し、村域は東西2.18キロメートル、南北9.3キロメートルに及ぶ[1]。北部の多くは山地となっており、南部は川内平野の一部を形成している。また、南東部には東郷町藤川から流れる川内川の支流である田海川が東郷町との境界部に流れ、川内川に合流している。
南部の中郷には中郷上池、中郷下池、天神池などの池が多くあり、川内川沿いにある水田の潅水に使用されている。
- 山:今村岡
- 河川:川内川、田海川
- 池:中郷上池、中郷下池、天神池
大字
編集下東郷村の大字は藩政時代の村を継承した田海、白浜、中郷の3大字があった[3]。
1957年4月1日の分割編入により、川内市に編入された区域については「 大字の廃止及び町の新設」(鹿児島県告示)により大字田海は「田海町」、大字白浜は「白浜町」、大字中郷は「中郷町」となり、東郷町に編入された大字田海の区域については「 廃置分合に伴う字の名称変更」(鹿児島県告示)により編入された区域の大字田海を大字藤川に改称する手続きにより既に存在している大字藤川(現在の東郷町藤川)に編入した[4]。また高城村に編入された区域も同様に「 大字名称変更」(鹿児島県告示)によって高城村に編入された区域の大字田海を大字城上に改称する手続きにより、既に存在している大字城上(現在の城上町)に編入した[5][6]。
現在の薩摩川内市田海町、白浜町、中郷・中郷町の全域及び、運動公園町、原田町、東大小路町、城上町、東郷町藤川の各一部が廃止時の村域に当たる。
歴史
編集江戸時代には下東郷村に属していた田海村及び白浜村は東郷町(旧上東郷村)の区域と共に東郷(外城)のうちであった[6]。田海村には郷士集落が形成され[6]、白浜村には川内川の水運の中継地として浦町が形成されていた[7]。
また、中郷村は中郷のうちであり、中郷の地名は平安時代末期から見える。外城としては江戸時代に東郷から分割され設置された外城であり、1村で1外城を形成していた。明治3年に中郷は東郷に統合された[8]。
沿革
編集- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、東郷のうち田海村、白浜村、中郷村の3村の区域より薩摩郡下東郷村が成立[3]。
- 1890年(明治23年)6月30日 - 村役場を大字田海字今村1677番地へ移転[9]。
- 1931年(昭和6年) - 村役場を丸山公民館付近から大字田海1556番地へ移転。新庁舎は川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校の前身)の旧校舎を譲り受けた[3]。
- 1954年(昭和29年)4月 - 村域を分割せずに川内市に全区域を編入する「全村川内市合併」が下東郷村議会で決議される[10]。
- 1955年(昭和30年)3月2日 - 下東郷村全域の川内市編入について鹿児島県合併促進審議会の結論が出されないことを理由に合併を延期することを川内市長が決定[11]。
- 1957年(昭和32年)
- 3月11日 - 高城村議会が下東郷村の一部編入を議決[2]。
- 3月12日 - 東郷町議会が下東郷村の一部編入を議決[2]。
- 3月13日 - 下東郷村議会が川内市・高城村・東郷町への編入を議決[2]。
- 3月15日 - 川内市議会が下東郷村の一部編入を議決[2]。
- 3月28日 - 鹿児島県議会が下東郷村の一部を川内市・高城村・東郷町へ編入することを議決[2]。
- 3月31日 - 「 市町村の廃置分合」(総理府告示)が官報に掲載される。
- 4月1日 - 大字田海の一部を高城村大字城上(現在の城上町)、東郷町大字藤川(現在の東郷町藤川)に編入し、残部にあたる大字田海の一部と大字白浜・大字中郷の全域を川内市に編入[12]。
行政
編集歴代村長
編集町村制施行以降の村長を記載する。『川内市史 下』の表記に基づく[16]。但し、旧字体については新字体に置換えた。
代 | 氏名 | 就任期間 |
---|---|---|
初 | 川口盛吉 | 1889年 - 1890年 |
2 | 浜田治右衛門 | 1890年 - 1899年 |
3 | 早崎慶之丞 | 1899年 - 1904年 |
4 | 若松源八郎 | 1904年 - 1908年 |
5 | 田代十太郎 | 1908年 - 1927年 |
6 | 鳥越巌 | 1927年 - 1931年 |
7 | 鎌田仁志 | 1931年 - 1946年 |
8 | 有西一郎 | 1946年 - 1947年 |
9 | 大島敬吉 | 1947年 - 1951年 |
10 | 若松連 | 1951年 - 1956年 |
11 | 有西一郎 | 1956年 - 1957年 |
人口
編集以下の人口遷移表は『川内市史 下』の別紙の記述に基づく。但し、町村制が施行される以前の人口は三村(田海村、白浜村、中郷村)の合計となっている。
- 凡例
人口(人) |
1882年 | 2,997 | |
1902年 | 3,470 | |
1912年 | 4,074 | |
1922年 | 4,318 | |
1935年 | 3,693 | |
1947年 | 4,704 | |
1955年 | 4,328 |
地域
編集教育
編集中学校
編集- 下東郷村立下東郷中学校(1991年に川内市立高城東中学校と統合し薩摩川内市立平成中学校となる)
小学校
編集- 下東郷村立八幡小学校
- 下東郷村立育英小学校
- 高城村下東郷村組合立吉川小学校(のちの薩摩川内市立吉川小学校(閉校))
交通
編集鉄道
編集道路
編集1957年当時は村内を通る国道はなく、1963年に主要地方道人吉川内線が二級国道人吉川内線(国道267号)に指定され、1965年に一般国道に昇格し国道267号となった。
主要地方道
編集- 人吉川内線(国道267号の前身)
一般県道
編集- 山崎川内線
- 東郷西方港線
渡船
編集脚注
編集- ^ a b c 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 143.
- ^ a b c d e f 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 145.
- ^ a b c 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 157.
- ^ 廃置分合に伴う字の名称変更(昭和32年鹿児島県告示第293号、昭和32年4月15日付鹿児島県公報第4143号所収、 原文)
- ^ 大字名称変更(昭和32年鹿児島県告示第292号、昭和32年4月15日付鹿児島県公報第4143号所収、 原文)
- ^ a b c 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 389.
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 357-358.
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 428.
- ^ 村役場移轉(明治23年7月17日付官報第2114号所収、NDLJP:2945366/7)
- ^ 年表 p.257 - 薩摩川内市 2013年4月19日閲覧。
- ^ 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 141.
- ^ 市町村の廃置分合(昭和32年総理府告示第223号、昭和32年3月31日付官報号外第14号所収、 原文)
- ^ 鹿児島県総務部参事室 1967, p. 703.
- ^ 鹿児島県総務部参事室 1967, p. 705.
- ^ 鹿児島県総務部参事室 1967, p. 707.
- ^ a b 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 170.
- ^ 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 725.
- ^ 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 553.
- ^ a b 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 559.
参考文献
編集- 鹿児島県総務部参事室『鹿児島県市町村変遷史』鹿児島県、1967年。
- 川内郷土史編さん委員会『川内市史 下巻』川内市、1980年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店、1983年。ISBN 978-4040014609。