上杉 斉憲(うえすぎ なりのり)は、江戸時代末期(幕末)の大名出羽国米沢藩12代藩主。山内上杉家28代当主。

 
上杉斉憲
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 文政3年5月10日1820年6月20日
死没 明治22年(1889年5月20日
改名 鶴千代・篤千代(幼名)→斉憲→斉定、曦山(号)
別名 米沢中将、通称:喜平次
墓所 東京都港区興禅寺
官位 式部大輔従四位上弾正大弼左近衛権中将従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
出羽米沢藩
氏族 米沢上杉家
父母 父:上杉斉定、母:多喜
兄弟 斉憲、男子2人、勝道板倉勝顕正室、秋月種殷継室、
青雲院(池田政和正室)、
良(秋元志朝正室)、山崎治正正室
正室貞姫山内豊資の娘)
継室郁姫松平頼恕の娘)
側室:磐、神田氏
茂憲、栄子、勝賢吉井信謹松平忠敬、猷子、熊松丹羽長裕、純子、丹羽長保、千鶴子、亀雄
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生涯

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文政3年(1820年)5月10日、米沢藩11代藩主・上杉斉定の長男として生まれた。母は畠山義周の娘多喜で、側室ながら上杉家の血を引く[1]。父同様、11代将軍徳川家斉偏諱を受けて斉憲と名乗った。のちに父と同名の斉定とも名乗っている。

天保7年(1836年)10月23日、従四位下・侍従兼式部大輔に叙任。天保10年(1839年)4月3日、家督を継ぐ。同年同月11日、弾正大弼に転任。侍従如元。安政3年(1856年)に海外防備による出費のために藩士の知行借り上げを復活した。同年12月16日、左近衛権少将を兼任、侍従を去る。

安政6年(1859年)には種痘を藩内に推奨した。文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたり、9月22日、左近衛権中将に転任、弾正大弼如元。元治元年(1864年)5月1日、従四位上に昇叙、左近衛権中将兼弾正大弼如元。

藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応2年(1866年)にはこの功績を賞され屋代3万7千石の加増を受けている。上杉家の領地が増やされるのは実に2世紀半ぶりのことで、豊臣政権時代に越後国から会津に加増転封になって以来のことである。この一事が非常な喜びとなったか、かつての名君・上杉治憲(鷹山)に次ぐ名君とまで呼ばれた。開明的な人物で、開国にも積極的だったという。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に握りつぶされたため、これに抗議し仙台藩に次ぐ奥羽越列藩同盟の副盟主となり、新政府軍と戦った。米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年(1868年)5月に新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。同年8月3日、解官。

その後、旗色が悪くなったこと、京都・江戸での甘粕氏・毛利氏(長州藩の本家筋)[2]らと西国雄藩との外交工作などもあり新政府軍に降伏した。そして、それまで味方であった会津と庄内に兵を送った。奥羽越列藩同盟の実質的な盟主[3]であったため「裏切り者」「甘粕狐に騙された」等とも称された。明治維新後、領地を14万7千石に削減された。また、明治元年12月7日、家督を長男・茂憲に譲り隠居した。明治2年(1869年)9月28日、従三位に叙位。

明治22年(1889年5月20日、死去。享年70(満68歳没)。

系譜

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斉憲家臣

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元治元年の江戸武鑑に見られる主要家臣は以下のとおり。

家老、奉行、侍頭及び分領家】
本庄弥次郎、長尾権四郎、中条豊前、千坂琢磨(国家老)、色部長門(江戸家老)、毛利治部(毛利安積、京都藩邸留守居)、竹俣美作、市川美濃、清野大学、島津玄蕃、平林内蔵助、竹俣直蔵、廣居図書、莅戸孫七郎
【中老】
杉原石見
用人
深澤五平太、甘粕数右衛門、小倉将監、樋口伊織、額田求馬、木滑要人(城使兼務)、若林作兵衛、登坂八兵衛、
【世子傳役】
松本彦左衛門
【世子附き用人】
大瀧新蔵、増岡孫次郎
【御城使】
額田卯右衛門

登場作品

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NHK大河ドラマ

脚注

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  1. ^ 義周の父・畠山義紀は5代藩主・上杉吉憲の三男で、斉憲の両親はまたいとこ同士である。
  2. ^ 毛利安積は上杉茂憲が米沢県(のち置賜県)知藩事となると、家臣筆頭の甲斐武田・次席の能登畠山を差し置いて、大参事(知藩事に次ぐ副官。現在の副知事に当たる)に就任した。
  3. ^ 名目上の盟主は仙台藩の伊達慶邦
  4. ^ 警察官若森直良の妻

外部リンク

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