三重師範学校
三重師範学校(みえしはんがっこう)は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に、三重県に設置された師範学校である。
本項は、三重県師範学校・三重県女子師範学校などの前身諸校を含めて記述する。
概要
編集1875年(明治8年)設立の(旧・三重県)師範有造学校を起源として、三重県師範学校・三重県女子師範学校の統合・官立移管により設置され、男子部・女子部を置いた。
第二次世界大戦後の学制改革で新制三重大学学芸学部(現・教育学部)の前身の一つとなった。同窓会は「三重大学教育学部同窓会」と称し、旧制(三重師範・三重青師)・新制(学芸学部・教育学部)合同の会である。
沿革
編集旧・三重県立、度会県立並設期
編集度会県師範学校、師範有造学校
編集- 1873年12月5日:度会県、仮講習所を開設。
- 1874年
- 2月:度会県、仮講習所を教員講習所と改称。
- 4月:度会県、教員講習所を宮崎文庫に移転 (現・伊勢市岡本、豊宮崎文庫跡)。
- 8月:度会県、教員講習所を度会県師範学校と改称。
- 正規教員を招聘。修業期間は 4ヶ月(1875年5月から8ヶ月)、18歳以上対象。宮崎小学校を附属小学校に。
- 9月:度会県師範学校、岡本町の上部貞亨宅に移転(現・津地裁伊勢支所付近)。
- 1875年5月20日:三重県、旧藩校有造館跡に師範有造学校を設立。
- 1876年1月:度会県師範学校、新校舎竣工。
三重県立期
編集津師範学校、山田師範学校
編集- 1876年
- 9月20日:旧・師範有造学校を津師範学校、旧・度会県師範学校を山田師範学校と改称。
- 1876年4月に度会県が三重県に合併されたことによる措置。
- 11月:三重県、師範学校 2校の規則を統一。
- 修業年限は下等8ヶ月・上等1年。入学資格は18歳以上40歳未満。
- 12月19日:伊勢暴動で山田師範学校校舎焼失。生徒は津師範学校に収容。
- 9月20日:旧・師範有造学校を津師範学校、旧・度会県師範学校を山田師範学校と改称。
旧・三重県師範学校
編集- 1877年
- 1月12日:津師範学校、山田師範学校との合併により三重県師範学校と改称。
- 8月:修業年限を下等1年・上等1年に変更。
- 1878年7月:津 西堀端の新校舎に移転(現・津市西丸之内)。
- 1880年7月6日:天皇行幸。
- 1940年7月6日、同窓会により「明治天皇臨幸記念碑」建立。
- 1882年6月:師範学校教則大綱により規則改正。
- 初等科(1年)・中等科(2年半)・高等科(4年)を設置。
三重県尋常師範学校
編集- 1888年10月:津 丸之内の新校舎に移転(現・津市役所付近)。
- 1889年4月:小学校教員講習所を併置(修業年限1年半)。
- 1893年4月:簡易科を設置(修業年限2年4ヶ月。1904年7月廃止)。
- 1894年4月:小学校教員講習所を(改正)講習科に改組(修業年限1年半)。
三重県師範学校
編集- 1898年4月:師範教育令により三重県師範学校と改称。
- 1901年
- 5月:女子講習科を設置(修業年限2ヶ月)。
- 9月:女子部を開設。
- 女子講習科修了者はほとんどが女子部に進学した。
- 1903年
- 1904年4月:女子部を三重県女子師範学校として分離。
- 1908年
- 1920年10月:生徒同人誌 『血』 発禁事件。
- 1925年5月:本科第一部を5年制に変更。
- 1926年4月:専攻科を設置(1年制)。
- 1931年
- 1937年12月:『郷土教育資料 : 興村の実際』を刊行。
- 1939年4月:本科第二部に大陸科を設置。
- 1940年5月:大陸科寄宿舎「文武寮」開設(安濃郡安東村)。
- 従来の寄宿舎を「誠之寮」と命名。
三重県女子師範学校
編集- 1901年
- 5月:三重県師範学校に女子講習科を設置(修業年限2ヶ月)。
- 9月:三重県師範学校に女子部を開設。
- 1904年
- 1907年頃:校長排斥ストライキ事件。
- 第2代 秋鹿校長の就任とともに教諭数名が転出となったことに抗議。校長転出、生徒謹慎で決着。
- 1908年3月:本科4年制となる。
- 1910年2月:本科第二部を設置(1年制、高女卒対象)。
- 1925年5月:本科第一部を5年制に変更。
- 1926年4月:専攻科を設置(1年制)。
- 1928年4月:本科第二部を2年制に延長。
- 1933年4月:鈴鹿高等女学校(現・県立亀山高)と校舎共用に。
- 1934年10月:校歌制定(鈴鹿高女と共通)。『鈴鹿の嶺は』(作詞:佐佐木信綱]、作曲:岡野貞一)。
官立期
編集三重師範学校
編集- 1943年4月1日:三重県師範学校・三重県女子師範学校を統合し、官立三重師範学校設置。
- 旧三重県師範学校校舎に男子部、旧三重県女子師範学校校舎に女子部を設置。
- 1945年
- 7月24日:津空襲で男子部校舎ほぼ壊滅。
- 7月28日:再度の空襲で男子部寄宿舎も全焼。
- 鉄筋コンクリート造の校舎本館の一部のみ残存。
- 9月:女子部、授業再開。
- 10月:男子部、焼け残り校舎を使用して隔週で授業再開。
- 1946年2月:男子部、一志郡香良洲町(現・津市香良洲町)の三重海軍航空隊予科練跡に移転。
- 丸之内校舎は附属学校が使用した。
- 1947年3月:カトリック女子大接収事件。
- カトリック系女子大学設立計画で、丸之内校舎が接収されそうになった。校長の拒否で回避。
- 1948年10月:男女共学化。
- 生徒の希望で旧男子部(香良洲)・旧女子部(亀山)が選択可能に。
- 1949年
- 4月:事務局、津市丸之内へ復帰。
- 5月31日:新制三重大学発足。
- 三重師範学校は青師と共に学芸学部の母体として包括された。旧男子部校舎には香良洲分校、旧女子部校舎には亀山分校が置かれた。
- 1951年3月:三重大学三重師範学校(旧制)、廃止。
歴代校長
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三重県師範学校(前身諸校を含む)
編集- 椿蓁一郎:1879年7月 - 1880年2月
- 野沢玄宣:1880年 - 1882年
- 伊藤新六郎:1882年 - 1885年5月
- 津田純一:1885年11月 - 1887年2月
- 椿蓁一郎:1887年2月25日 - 1888年8月10日[2]
- (心得)桑原護一:1888年8月 - 1888年10月
- 大野徳孝:1888年10月20日 - 1890年2月
- 菅沼政経:1890年3月 - 1892年3月18日
- 長倉雄平:1892年4月1日 - 1896年9月14日
- 深井弘:1896年9月14日 - 1897年2月22日
- 豊岡俊一郎:1897年2月27日 - 1899年6月28日
- 山高幾之丞:1899年6月28日 - 1902年2月24日
- 星菊太:1902年2月24日 - 1903年1月4日休職
- (心得)水谷兵四郎:1903年1月 - 1903年4月
- 根岸福弥:1903年4月1日 - 1906年6月2日
- 相沢英二郎:1906年6月2日 - 1913年5月31日
- 真崎誠:1913年5月31日 - 1919年11月
- 高藤太一郎:1919年12月 - 1923年3月31日[3]
- 三井政善:1923年3月31日[3] - 1935年10月
- 立川伊三郎:1935年10月 - 1938年4月
- 福田謹四郎:1938年4月 - 1942年3月
- 木暮安水:1942年4月 - 1943年3月
三重県女子師範学校
編集- 生駒恭人:1904年3月19日 - 1906年9月1日死去
- 秋鹿見橘:1906年9月25日 - 1907年6月14日
- 小山光彦:1907年6月14日 - 1915年4月27日
- 東基吉:1915年4月27日 - 1917年7月6日
- 三溝升一:1917年7月6日 -
- 堀田要三郎
- 中川竹次郎:1932年4月 -
- 前田恒治
官立三重師範学校
編集校地の変遷と継承
編集三重師範学校男子部
編集前身の三重県師範学校から引き継いだ津市丸之内殿町(現・西丸之内)の校地を使用した。丸之内校地は 1945年7月の空襲で本館を残して壊滅した。1945年10月の授業再開時は焼け残りの校舎を利用して隔週授業を行なった。1946年2月、一志郡香良洲町(現・津市香良洲町) の三重海軍航空隊予科練跡に移転し、丸之内校地は附属国民学校によって使用された。1949年4月、事務局は丸之内に復帰した。香良洲校地は後身の新制三重大学学芸学部に継承され、学芸学部香良洲分校となった。1951年4月、香良洲・亀山(旧女子部)・松阪(旧青師)の 3分校は丸之内に統合された。三重大学学芸学部は1966年に教育学部と改称後、1969年4月、現在の上浜キャンパスに移転した。現在、丸之内校地の跡地は津市役所となっている。
三重師範学校女子部
編集前身の三重県女子師範学校から引き継いだ鈴鹿郡亀山町東町(現・亀山市本町)の校地を廃止まで使用した。亀山校地は後身の三重大学学芸学部に引き継がれ、学芸学部亀山分校となった。亀山分校は 1951年4月に津市丸之内の学芸学部本校に統合され、跡地は学芸学部附属亀山小学校・中学校に使用された。1952年5月6日、旧女子部校舎は焼失した。学芸学部附属亀山小学校・中学校は1963年3月に廃止され、跡地は亀山市立亀山東小学校となって現在に至っている。
著名な出身者
編集脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 三重大学教育学部 - 後身校