三原春上
平安時代初期の公卿
三原 春上(みはら の はるかみ)は、平安時代初期の公卿。一品・新田部親王の曾孫。尾張守・三原弟平の長男。官位は正四位下・参議。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀5年(774年) |
死没 | 承和12年11月18日[1](845年12月20日) |
官位 | 正四位下・参議 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 三原氏 |
父母 | 父:三原弟平 |
子 | 永道? |
経歴
編集弾正大忠・民部大丞・式部大丞・蔵人を経て、嵯峨朝末の弘仁11年(820年)47歳にしてようやく従五位下に叙爵。同年伊賀守に任ぜられる。
弘仁14年(823年)淳和天皇が即位すると京官に復し、中務少輔に右少弁を兼ね次いで主殿頭に転任する。また同年従五位上、翌天長元年12月(825年1月)正五位下、天長2年(825年)従四位下・蔵人頭と淳和朝で急速な昇進を果たし、天長5年(828年)参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間、下総守・兵部大輔・弾正大弼などを歴任している。参議昇進後も、天長8年(831年)従四位上、天長10年(833年)正四位下と累進し、議政官として右大弁・式部大輔・治部卿などを務めた。
仁明朝に入ると、嵯峨源氏や天皇と親族関係にある橘氏公・藤原良房らが急速に台頭する傍らで昇進は止まるが、弾正大弼・治部卿・伊勢守などを歴任した。承和10年(843年)4月上表して致仕。承和12年(845年)11月18日卒去。享年72。最終官位は参議正四位下。
官歴
編集注記のないものは『六国史』による。
- 大同4年(809年) 6月:弾正大忠[2]
- 弘仁2年(811年) 正月:民部大丞[2]。4月:式部大丞[2]
- 弘仁8年(817年) 正月:蔵人[2]
- 弘仁9年(818年) 日付不詳:式部少丞[2]
- 時期不詳:正六位上
- 弘仁11年(820年) 正月7日:従五位下。正月11日:伊賀守[2]
- 弘仁14年(823年) 4月:中務少輔[2]。5月1日:右少弁[2]。9月27日:主殿頭(止弁)[2]。11月20日:従五位上
- 天長元年(824年) 正月11日:兼下総守[2]。12月27日:正五位下
- 天長2年(825年) 正月4日:従四位下。2月5日:兵部大輔[2]。7月:蔵人頭[2]。9月13日:兼弾正少弼[2]
- 天長3年(826年) 9月:兼弾正大弼[2]
- 天長5年(828年) 3月19日:参議[2]
- 天長6年(829年) 正月13日:右大弁(止弾正大弼)[2]
- 天長7年(830年) 6月5日:兼相模守[2]。8月4日:式部大輔(止弁)[2]
- 天長8年(831年) 正月4日:従四位上。9月:兼弾正大弼(止式部大輔)[2]
- 天長9年(832年) 11月7日:治部卿(止弾正大弼)[2]
- 天長10年(833年) 正月7日:正四位下
- 承和元年(834年) 7月1日:弾正大弼
- 承和6年(839年) 10月25日:兼伊勢守
- 承和7年(840年) 5月8日:装束司(淳和上皇崩御)。10月16日:兼弾正大弼(伊勢守兼任)
- 承和10年(843年) 4月23日:致仕
- 承和12年(845年) 11月18日:卒去(参議正四位下)