ローマ共和国 (19世紀)
- ローマ共和国
- Repubblica Romana
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← 1849年
2月9日 - 6月29日→ (国旗) (国章) - 国の標語: DIO E POPOLO
(イタリア語: 神と人民) - 国歌: マメーリの賛歌
1849年の教皇国の領土。ローマ共和国も同じ領域を領土とした。-
公用語 イタリア語 首都 ローマ 通貨 スクード 現在 イタリア
バチカン
ローマ共和国(ローマきょうわこく・イタリア語: Repubblica Romana)は、1849年(2月 - 6月)に一時的にイタリアのローマを中心に存在した政府である。教皇領と同じ領土を持つ国家であり、三頭政治を行うなど古代ローマ共和国を真似ており、信仰の自由が保障された国家であった。また、史上初めて死刑を禁止した憲法を発効した国家でもある。
歴史
編集ローマでは、1848年のフランス二月革命の影響で11月にローマ教皇ピウス9世がローマを脱出し、11月15日に教皇国家の首相ペッレグリーノ・ロッシが暗殺され、無政府状態になっていた。
1849年2月9日に革命によりローマ共和国が樹立された。教皇はガエータに避難した[1]。ジュゼッペ・マッツィーニ、アウレリオ・サッフィ、カルロ・アルメッリーニの3人が三頭執政官となった。
しかし、同じ1849年のジュゼッペ・ガリバルディなどのローマ防衛軍は、ローマ大学の戦いにおいてジャニコロ丘で一時フランス軍を撃退するが、抵抗もむなしく7月3日にルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン3世)率いるフランス軍に降伏した。教皇も1850年にローマに戻った[1]。
以後
編集イタリア統一運動により1861年にイタリア王国が成立した。さらに教皇領を守護していたフランス軍が普仏戦争によって撤退する[2]と、イタリア王国軍によってローマが占領され、1870年に教皇領は消滅した。
脚注
編集参考文献
編集- レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第2巻 ムハンマドからマラーノへ』合田正人訳、筑摩書房、2005年8月10日。ISBN 978-4480861221。[原著1961年]
- 藤沢房俊『第三のローマ イタリア統一からファシズムまで』新書館、2001年11月30日。ISBN 978-4403230929。
関連項目
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