ロバート・クルー=ミルンズ (初代クルー侯爵)
初代クルー侯爵ロバート・オフリー・アシュバートン・クルー=ミルンズ(英語: Robert Offley Ashburton Crewe-Milnes, 1st Marquess of Crewe KG PC FSA、出生名ロバート・オフリー・アシュバートン・ミルンズ(Robert Offley Ashburton Milnes)、1858年1月12日 - 1945年6月20日)は、イギリスの貴族、政治家、作家。アイルランド総督、枢密院議長、王璽尚書、貴族院院内総務、陸軍大臣、インド大臣など多くの閣僚職、大臣職を歴任した。
ロバート・クルー=ミルンズ Robert Crewe-Milnes | |
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バッサーノ社(Bassano)による肖像写真、1921年。 | |
生年月日 | 1858年1月12日 |
出生地 | イギリス ロンドンメイフェア |
没年月日 | 1945年6月20日(87歳没) |
出身校 | トリニティ・カレッジ |
所属政党 | 自由党 |
称号 | ガーター勲章 |
内閣 | 第2次ラムゼイ・マクドナルド内閣 |
在任期間 | 1931年8月25日 - 1931年11月5日 |
内閣 | ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣 |
在任期間 | 1916年8月18日 - 1916年12月10日 |
内閣 | ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣 |
在任期間 |
1910年11月3日 - 1911年3月7日 1911年5月25日 - 1915年5月25日 |
内閣 | ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣 |
在任期間 |
1908年10月9日 - 1911年10月23日 1912年2月13日 - 1915年5月25日 |
内閣 | ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣 |
在任期間 | 1908年4月14日 - 1916年12月10日 |
その他の職歴 | |
イギリス 植民地大臣 (1908年4月12日 - 1910年11月3日) | |
イギリス 枢密院議長 (1905年12月10日 - 1908年4月12日 1915年5月25日 - 1916年12月10日) | |
イギリス アイルランド総督 (1892年8月18日 - 1895年6月29日) | |
イギリス 貴族院議員 (1885年8月12日 - 1945年6月20日) |
略歴
編集初代ホートン男爵リチャード・モンクトン・ミルンズと妻アナベラ・ハンガーフォード(Annabella Hungerford、旧姓クルー(Crewe)、第2代クルー男爵ジョン・クルーの娘)の息子として、1858年1月12日にメイフェアのアッパー・ブルック・ストリートで生まれ、メイフェアのセント・マーク教会で洗礼を受けた[1]。ハーロー校で教育を受けた後[1]、1875年10月16日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1880年にB.A.の学位を、1885年にM.A.の学位を修得した[2]。1885年8月10日に父が死去すると、ホートン男爵位を継承した[1]。
第3次グラッドストン内閣(1886年2月 – 8月)で侍従たる議員を務めた[1]。
1892年8月18日に枢密顧問官に任命され、同年から1895年までアイルランド総督を務めた[1]。1893年1月3日に母方のおじにあたる第3代クルー男爵ハンガーフォード・クルーが死去すると、その遺産を継承、1894年6月8日に女王の認可状を得て母方の旧姓「クルー」を姓に加えた[1]。1895年7月17日、連合王国貴族であるチェシャーにおけるクルー伯爵に叙された[1]。
1905年12月から1908年4月まで枢密院議長を、1908年4月から1910年11月まで植民地大臣を、1910年11月から1911年3月までインド大臣を、1908年10月から1911年10月まで王璽尚書を務めた[1]。1911年5月にインド大臣を再任[1]、1915年まで務めた[2]。
1911年6月22日、ジョージ5世の戴冠式で連合王国貴族であるクルー侯爵とスタッフォードシャーにおけるメイドリー伯爵に叙された[1]。
1912年から1915年まで王璽尚書を、1922年から1928年まで在フランスイギリス大使を、1930年に陸軍大臣を務めた[2]。1936年から1944年まで貴族院における自由党党首を務めた[2]。
1945年6月20日に死去した[2]。
栄典
編集家族
編集1880年6月3日、シビル・マーシア・グラハム(Sybil Marcia Graham、1857年7月23日 – 1887年9月19日、第3代準男爵サー・フレデリック・グラハムの娘)と結婚した[1]。
1899年4月20日、マーガレット・プリムローズ(Margaret Primrose、1881年1月1日 – ?、第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの娘)と再婚した[1]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 536–537.
- ^ a b c d e f g h i j "Milnes, the Hon. Robert Offley Ashburton. (MLNS875RO)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Robert Crewe-Milnes
- ロバート・クルー=ミルンズ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- ロバート・クルー=ミルンズの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- "ロバート・クルー=ミルンズの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
公職 | ||
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先代 初代ゼットランド侯爵 |
アイルランド総督 1892年 – 1895年 |
次代 第5代カドガン伯爵 |
先代 第6代ロンドンデリー侯爵 |
枢密院議長 1905年 – 1908年 |
次代 第2代ツイードマス男爵 |
先代 第9代エルギン伯爵 |
植民地大臣 1908年 – 1910年 |
次代 ルイス・ヴァーノン・ハーコート |
先代 初代リポン侯爵 |
王璽尚書 1908年 – 1911年 |
次代 初代キャリントン伯爵 |
貴族院院内総務 1908年 – 1916年 |
次代 初代ケドルストンのカーゾン伯爵 | |
先代 初代ブラックバーンのモーリー子爵 |
インド大臣 1910年 – 1915年 |
次代 オースティン・チェンバレン |
先代 初代リンカンシャー侯爵 |
王璽尚書 1912年 – 1915年 |
次代 初代ケドルストンのカーゾン伯爵 |
先代 第7代ビーチャム伯爵 |
枢密院議長 1915年 – 1916年 | |
先代 アーサー・ヘンダーソン |
教育委員会委員長 1916年 |
次代 ハーバート・フィッシャー |
先代 アルフレッド・バックストン |
ロンドン・カウンティ・カウンシル議長 1917年 – 1918年 |
次代 ロナルド・ノーマン |
先代 トム・ショー |
陸軍大臣 1931年 |
次代 初代ヘイルシャム子爵 |
党職 | ||
先代 初代リポン侯爵 |
貴族院における自由党党首 1908年 – 1923年 |
次代 初代ファラドンのグレイ子爵 |
先代 レディング侯爵 |
貴族院における自由党党首 1936年 – 1944年 |
次代 初代サミュエル子爵 |
外交職 | ||
先代 初代ペンズハーストのハーディング男爵 |
在フランスイギリス大使 1922年 – 1928年 |
次代 ウィリアム・ジョージ・ティレル |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | クルー侯爵 1911年 – 1945年 |
廃絶 |
クルー伯爵 1895年 – 1945年 | ||
先代 リチャード・モンクトン・ミルンズ |
ホートン男爵 1885年 – 1945年 |