ジョージ・ロビンソン (初代リポン侯爵)
初代リポン侯爵ジョージ・フレデリック・サミュエル・ロビンソン(英: George Frederick Samuel Robinson, 1st Marquess of Ripon, KG GCSI CIE VD PC、1827年10月24日 - 1909年7月9日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代リポン侯爵 ジョージ・ロビンソン George Robinson 1st Marquess of Ripon | |
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生年月日 | 1827年10月24日 |
出生地 | イギリス、ロンドン、ダウニング街10番地 |
没年月日 | 1909年7月9日(81歳没) |
所属政党 | 自由党 |
称号 | 初代リポン侯爵、第2代リポン伯爵、第3代ド・グレイ伯爵、ガーター勲章士(KG) |
配偶者 | ヘンリエッタ |
親族 | 初代リポン伯爵フレデリック・ジョン・ロビンソン(父) |
インド副王(総督) | |
在任期間 | 1880年6月8日 - 1884年12月13日[1] |
女帝 | ヴィクトリア |
内閣 | 第2次パーマストン子爵内閣、第2次ラッセル伯爵内閣 |
在任期間 | 1863年4月28日 - 1866年2月[2] |
内閣 | 第2次ラッセル伯爵内閣 |
在任期間 | 1866年2月16日 - 1866年6月[3] |
内閣 | 第3次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1886年2月3日 - 1886年7月20日[2] |
内閣 | 第4次グラッドストン内閣、ローズベリー伯爵内閣 |
在任期間 | 1892年8月16日 - 1895年6月24日[3] |
その他の職歴 | |
庶民院議員 (1852年7月7日 - 1853年3月31日 1853年4月22日 - 1859年1月28日[4]) | |
貴族院議員 (1859年1月28日 - 1909年7月9日[4]) |
ヴィクトリア朝中期からエドワード朝にかけての自由党政権で閣僚職を歴任した。1880年から1884年にかけてはインド総督を務め、自由主義的なインド統治を行った。
元首相の初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソンは父である。
経歴
編集1827年10月24日、初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン(後に初代リポン伯爵に叙される)とその妻セーラ(第4代バッキンガムシャー伯爵ロバート・ホバートの娘)の間の長男として生まれる[5]。当時父が首相を務めていたため、ダウニング街10番地で出生した[6]。
パブリックスクールや大学には通わず、家庭教育で育てられた。青年時代にはキリスト教社会主義運動に参加し、ランカシャーやロンドンの機械工のストライキに金銭支援を行った[6]。
1852年にキングストン・アポン・ハル選挙区から庶民院議員に当選[7][4]。1853年からはハダースフィールド選挙区から選出され[8][4]、 1857年からはウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー選挙区から選出される[9][4]。1859年1月に父が死去してリポン伯爵位を継承し、貴族院議員に転じた[4]。同年11月には伯父トマスが死去し、第3代ド・グレイ伯爵も継承した[10]。
自由党政権で陸軍大臣(1863年-1866年)[2]やインド担当大臣(1866年2月-6月)[3]など閣僚職を歴任した後、1880年6月にインド総督(副王)に就任した[注釈 1]。
リポン卿は就任早々、前総督リットン伯爵が起こした第二次アフガン戦争の後始末に追われた。反英的なアイユーブ・ハーンがカンダハルへの侵攻を狙う中、唯一アフガンの統治能力があると見られていたアブドゥッラフマーン・ハーンと接近し、イギリス以外の国と外交関係を持たないことを条件として彼をアフガン王(アミール)として承認した。そしてリポン卿の許可のもとにフレデリック・ロバーツ将軍率いる遠征軍が出撃し、アブドゥッラフマーンと協力してアイユーブ軍を撃破することに成功している[12]。
自由主義者であるリポン卿は内政面でも次々と改革を断行した。前総督リットン卿が制定した言論統制法を廃止し、また各州への地方自治を導入を目指した。さらに在印イギリス人からの強い反発を抑えて、1883年にインバート法案を起草してイギリス人が被告人の場合にもインド人判事が裁くことを認めようとしたが、在印イギリス人のみならず本国からも激しい反発を巻き起こし、同法案は骨抜きにされた。しかしこうした親インド的政策からリポン卿はインド人から敬愛されていた。インドでの評判がいい数少ないイギリス人総督の一人である[13][14]。
1884年末、当時庶民院解散の可能性が高まっていたため、保守党政権によるインド総督任命という事態を防ぐために任期より6カ月早めに退任することになった[15]
帰国後も自由党政権で海軍大臣(1886年2月-7月)[2]、植民地大臣(1892年-1895年)[3]、王璽尚書(1905年-1908年)[5]などの閣僚職を歴任した。
人物
編集最高位のフリーメイソンであり、1870年から1874年までイングランド・連合グランドロッジのグランドマスターを務めた[16][17]。しかし1874年にカトリックに改宗したため、フリーメイソンの全役職を辞することになった[18]。
プロテスタントの国教(イングランド国教会)を有するイギリスにおいてカトリックに改宗する貴族は珍しい。歴代インド総督の中でもカトリックだったのは彼一人だけである。しかしそのためにリポン卿はカトリック嫌いのヴィクトリア女王から非常に疎まれた。女王はリポン卿を重要ポストに就ける人事案にはしばしば難色を示した[17]。
リポン卿はインド人からは愛されたが、イギリス人からは嫌われていた。カルカッタに彼の銅像が建てられる事になった際、寄付金を寄せたのはインド人ばかりでイギリス人からは全く寄せられなかったという[15]。
栄典
編集爵位/準男爵位
編集- 1859年1月28日、第2代リポン伯爵(1833年創設連合王国貴族爵位)[5]
- 1859年1月28日、第2代ゴドリッチ子爵(1827年創設連合王国貴族爵位)[5]
- 1859年11月14日、第3代ド・グレイ伯爵(1816年創設連合王国貴族爵位)[5]
- 1859年11月14日、第4代グランサム男爵(1761年創設グレートブリテン貴族爵位)
- 1859年11月14日、第7代(ニュービーの)準男爵(1690年創設イングランド準男爵位)[5]
- 1871年6月23日、初代リポン侯爵(連合王国貴族爵位)[5]
勲章
編集- 1869年12月11日、ガーター騎士団(勲章)ナイト(KG)[5]
家族
編集1851年にヘンリエッタ・アン・テオドシア・ヴィナー(Henrietta Anne Theodosia Vyner)と結婚し、彼女との間に以下の2子を儲ける[5]。
脚注
編集注釈
編集- ^ リポン卿は着任に際して、国民人気のあるチャールズ・ゴードン陸軍大佐に個人秘書への就任を打診した。ゴードンは了承したが、リポン卿への総督就任祝いの手紙のやり取りの中で「お分かりでしょうが、リポン卿がご自身で(この)手紙を読むことはありません。」と本音を記してしまい、これが問題視されてインド到着後わずか3日で辞任してしまった[11]。
出典
編集- ^ 秦(2001) p.101
- ^ a b c d 秦(2001) p.510
- ^ a b c d 秦(2001) p.511
- ^ a b c d e f UK Parliament. “Viscount Goderich” (英語). HANSARD 1803–2005. 2013年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “George Frederick Samuel Robinson, 1st Marquess of Ripon” (英語). thepeerage.com. 2013年12月28日閲覧。
- ^ a b 浜渦(1999) p.133
- ^ "No. 21338". The London Gazette (英語). 13 July 1852. p. 1947.
- ^ "No. 21434". The London Gazette (英語). 26 April 1853. p. 1193.
- ^ "No. 21987". The London Gazette (英語). 10 April 1857. p. 1297.
- ^ Heraldic Media Limited. “de Grey, Earl (UK, 1816 - 1923)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年9月26日閲覧。
- ^ ファーガソン, ニーアル 著、山本 文史 訳『大英帝国の歴史 - 絶頂から凋落へ』 下(初版)、中央公論新社、東京都千代田区、2018年、79頁。ISBN 9784120050886。
- ^ 浜渦(1999) p.134-136
- ^ 浜渦(1999) p.137-138/227
- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 640.
- ^ a b 浜渦(1999) p.139
- ^ White, Geoffrey H., ed (1949). The Complete Peerage, Volume XI. St Catherine's Press. p. 4
- ^ a b 浜渦(1999) p.134
- ^ “Earl de Grey and Ripon” (英語). Grand Lodge of British Columbia and Yukon. 2015年9月26日閲覧。
参考文献
編集- 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Marquess of Ripon
公職 | ||
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先代 第3代ロスリン伯爵 |
陸軍省政務次官 1859年–1861年 |
次代 トマス・ベアリング |
先代 トマス・ベアリング |
インド担当省政務次官 1861年 |
次代 トマス・ベアリング |
先代 トマス・ベアリング |
陸軍省政務次官 1861年–1863年 |
次代 ハーティントン侯爵 |
先代 サー・ジョージ・ルイス准男爵 |
陸軍大臣 1863年–1866年 |
次代 ハーティントン侯爵 |
先代 サー・チャールズ・ウッド准男爵 |
インド担当大臣 1866年 |
次代 クランボーン子爵 |
先代 第7代マールバラ公爵 |
枢密院議長 1868年–1873年 |
次代 初代アバーデア男爵 |
先代 ジョージ・ハミルトン卿 |
海軍大臣 1886年 |
次代 ジョージ・ハミルトン卿 |
先代 初代ナッツフォード子爵 |
植民地大臣 1892年–1895年 |
次代 ジョゼフ・チェンバレン |
先代 第4代ソールズベリー侯爵 |
王璽尚書 1905年–1908年 |
次代 初代クルー伯爵 |
先代 第5代ランズダウン侯爵 |
貴族院院内総務 1905年–1908年 | |
官職 | ||
先代 初代リットン伯爵 |
インド副王兼総督 1880年–1884年 |
次代 初代ダファリン伯爵 |
党職 | ||
先代 第5代スペンサー伯爵 |
自由党貴族院院内総務 1905年–1908年 |
次代 初代クルー伯爵 |
名誉職 | ||
先代 第2代ゼットランド伯爵 |
ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー総督 1873年–1906年 |
次代 サー・トーマス・ベル准男爵 |
フリーメイソン | ||
先代 第2代ゼットランド伯爵 |
イングランド・連合グランドロッジ グランドマスター 1870年–1874年 |
次代 プリンス・オブ・ウェールズ (後の国王エドワード7世) |
学職 | ||
先代 新設 |
リーズ大学学長 1904年–1909年 |
次代 第9代デヴォンシャー公爵 |
イギリスの爵位 | ||
新設 | 初代リポン侯爵 1871年–1909年 |
次代 フレデリック・ロビンソン |
先代 フレデリック・ジョン・ロビンソン |
第2代リポン伯爵 1859年–1909年 | |
先代 トマス・ド・グレイ |
第3代ド・グレイ伯爵 1859年–1909年 |