リヒテンシュタイン家
リヒテンシュタイン家(リヒテンシュタインけ、ドイツ語: Haus Liechtenstein)は、ドイツのバイエルン・シュヴァーベン地方のドナウヴェルトを発祥とするドイツ系貴族[1]。その一族はオーストリア東部のウィーン州をはじめ、チェコのボヘミア地方とモラヴィア地方、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア北部のトランシルヴァニア地方、ポーランド南西部のシロンスク地方、スロベニアなどに分散している。
リヒテンシュタイン家 ドイツ語: Haus Liechtenstein | |
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リヒテンシュタイン家の紋章 | |
国 | リヒテンシュタイン |
創設 | 1608年(リヒテンシュタイン公として) |
家祖 | カール1世 |
現当主 | ハンス・アダム2世 |
民族 | ドイツ人 |
著名な人物 |
カール1世 ヨハン・アダム・アンドレアス アントン・フローリアン ヨーハン1世 フランツ・ヨーゼフ2世 |
リヒテンシュタイン家の当主は代々侯爵の称号を継ぐ。それとともに、神聖ローマ帝国期の領邦国家を引き継いだ小国家であるリヒテンシュタイン侯国の国家元首の地位をも継承する。
リヒテンシュタイン公国との関係
編集リヒテンシュタイン侯国はきわめて小規模な国家だが、リヒテンシュタイン家の領地は中東欧一帯に及び[2]、国外に持つ所有地は侯国の何倍もの面積にもなる。リヒテンシュタイン家はこの財力を基礎として、18世紀以来文化・芸術の保護者としても活動している。またリヒテンシュタイン家は侯国から歳費を支給されておらず、経済的に完全に自立している。リヒテンシュタイン家が私有する財産も公国とは無関係に、ハプスブルク家の重臣として蓄積されたものであり、むしろ公国がリヒテンシュタイン家に経済的に従属している観すらある。また、現在の君主ハンス・アダム2世はオーストリア国籍も有している。
歴史
編集リヒテンシュタイン家の名が初めて歴史上で使われたのは12世紀にドイツ系ボヘミア貴族のシュヴァルツェンベルク家のハインリヒがウィーン近郊にある城を築いたことを由来とする。
後にドナウヴェルトの地方貴族だったフーゴがリヒテンシュタイン城主であるシュヴァルツェンベルク家ハデリヒの娘と結婚して、相続してリヒテンシュタイン城の城主となり、その居城の名をとって家名としたのに始まっている。以来、リヒテンシュタイン家は諸侯の資格をもたない下級貴族ながらも、神聖ローマ帝国(ドイツ)の一部であったオーストリア地方北東部にあるドナウ川上流流域にあるニーダーエスターライヒの一部などの領主家として継続した。
14世紀からはオーストリアの領主となったハプスブルク家に仕えた。16世紀には3家に分家するが、長男のカール1世は1608年に侯爵の称号を与えられた。そして三十年戦争中の1623年に、戦争継続のために子飼いの貴族を諸侯に叙爵する勅書を乱発していた時の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の手により次男のマクシミリアンと三男のグンダカルも帝国諸侯(Reichsfürst)に叙任された。
1699年、カール1世の孫ヨハン・アダム・アンドレアスは、オーストリアの西にあるシェレンベルク男爵領を購入してその領主となり、1712年には隣接するファドゥーツ伯領を購入、シェレンベルク男爵領にあわせて領有した。この2つの所領が現在のリヒテンシュタイン侯国の前身である。ファドゥーツ伯領購入と同じ年、ヨハン・アダム・アンドレアスが死亡し、1606年に一族の3分家の間で結ばれた契約に従って、カール1世の弟グンダカルの子孫がリヒテンシュタイン公の称号を継いだ。1719年、アントン・フローリアンの時代に、リヒテンシュタイン家の所有する2つの隣接した所領は、皇帝によって神聖ローマ帝国に属する領邦国家、リヒテンシュタイン侯国として認められて、当時のドイツに数多く存在していた領邦のひとつとなった。
リヒテンシュタイン家は領邦君主となった後もハプスブルク家を主君として仕え、18世紀末の当主ヨーハン1世はオーストリア軍の司令官に就任した。だが、1806年に神聖ローマ帝国が解散されると、他のドイツ領邦君主と同じように独立小国の君主になった。ウィーン会議後にはドイツ連邦に参加したが、オーストリアとスイスに挟まった位置のために1871年のドイツ帝国結成には参加することなく、そのまま独立国の君主として残ることになる。
この間も、一族は先祖から受け継いだ領土をハプスブルク帝国内の各地に広げ、領邦の外のプラハやモラヴィアなどにも領土を持っており、主たる居宅もウィーンやモラヴィアにあった。だが、1919年のチェコスロバキアの独立と、1945年のチェコの共産化やベネシュ布告によって多くの家産が失われてしまった。これに代わってリヒテンシュタイン家の財政を支えているのは、1921年に設立されたリヒテンシュタイン銀行である。
1938年にはフランツ・ヨーゼフ2世がファドゥーツ城に移り、ここが公家の居所に定められた。
リヒテンシュタイン家が数世紀に渡り収集されてきた絵画や陶磁器の美術品については貴重なものが多い。2021年にはあべのハルカス美術館が美術品の貸し出しを受けて「リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」を開催した[3]。
系図
編集フーゴ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ディートリヒ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ディートリヒ2世 | ハインリヒ1世 | アルブレヒト1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ディートリヒ3世 | フリードリヒ1世 | ハインリヒ2世 | フーゴ | アルブレヒト2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ2世 | ハルトナイト2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨハン1世 | ハルトナイト3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨハン2世 | ハインリヒ5世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲオルク4世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ7世 | ゲオルク5世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲオルク6世 | ハルトマン1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲオルク・ハルトマン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハルトマン2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リヒテンシュタイン公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
編集脚注
編集- ^ “欧州の大貴族リヒテンシュタイン家。その始祖の謎に満ちた大出世人生 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト”. serai.jp (2021年3月10日). 2021年10月30日閲覧。
- ^ “欧州の大貴族リヒテンシュタイン家。その始祖の謎に満ちた大出世人生 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2”. serai.jp (2021年3月10日). 2021年10月30日閲覧。
- ^ “豪華な装飾「リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」開幕”. iza (2021年1月30日). 2021年1月30日閲覧。