ヨアキム・ヨハンソンJoachim Johansson, 1982年7月1日 - )は、スウェーデンルンド出身の男子プロテニス選手。2004年全米オープン男子シングルスベスト4に入り、世界ランキング9位まで到達した選手である。彼には「ピム・ピム」(Pim-Pim)というニックネームがある。身長198cmの長身から繰り出すサービスを最大の武器にしている。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げた。

ヨアキム・ヨハンソン
Joachim Johansson
ヨアキム・ヨハンソン
基本情報
愛称 Pim-Pim (ピム・ピム)
国籍  スウェーデン
出身地 同・ルンド
生年月日 (1982-07-01) 1982年7月1日(42歳)
身長 198cm
体重 90kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 2000年
引退年 2011年(2013年一時復帰)
ツアー通算 4勝
シングルス 3勝
ダブルス 1勝
生涯通算成績 88勝73敗
シングルス 72勝59敗
ダブルス 16勝14敗
生涯獲得賞金 $1,549,039
4大大会最高成績・シングルス
全豪 4回戦(2005)
全仏 1回戦(2004)
全英 4回戦(2004)
全米 ベスト4(2004)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 9位(2005年2月14日)
ダブルス 108位(2005年9月12日)

選手経歴

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父親のレイフ・ヨハンソン英語版は、1974年に男子テニス国別対抗戦デビスカップスウェーデン代表選手を務めるほどの実力者だった[1]。 ヨアキムは幼い時から父親にテニスを習い、当時スウェーデンの国民的英雄だったビョルン・ボルグの故郷のセーデルテリエで少年時代を過ごした。彼に「ピム・ピム」という愛称がついたのは、子供の頃に彼の兄と本人が「ヨアキム(Joachim)」という名前を正しく発音できず「ヨアピム(Joa-pim)」と呼ぶ癖がついて、それが定着したからだという。スウェーデンには「ピム・ピム」という名前の菓子もあり、ヨアキム・ヨハンソンはジュニア時代から「ピム・ピム・ヨハンソン」と呼ばれるようになった。2000年に18歳でプロ入りした後、3年間男子テニスツアー下部組織の大会を回り、2003年全豪オープン男子シングルス4大大会本戦に初出場。この年から、彼はデビスカップスウェーデン代表選手に選ばれた。

2004年、ヨアキムは男子ツアーで目覚ましい躍進を見せ、2月中旬の全米国際インドアテニス選手権決勝でニコラス・キーファーを破り、ツアー初優勝を果たした。その後2004年ウィンブルドン選手権男子シングルスで初の4回戦に勝ち進み、アテネ五輪にもスウェーデン代表として出場する。オリンピックでは、シングルス2回戦でイワン・リュビチッチに敗れた。2004年全米オープンでは第28シードとして出場・躍進し、準々決勝で前年度優勝者のアンディ・ロディックを6-4, 6-4, 3-6, 2-6, 6-4で破り、ロディックの全米連覇を阻止する勝利を挙げた。続く準決勝ではレイトン・ヒューイットに4-6, 5-7, 3-6で敗れた。こうして、ヨアキムは1年間で世界ランキングを95位から11位に上げ、ATP最も上達した選手賞を受賞した。

2005年、ヨアキムは1月のネクストジェネレーション・アデレード国際と2月のオープン13で優勝し、2月14日付で世界ランク9位となった。全豪オープン4回戦で、ヨアキムがアンドレ・アガシから51本ものサービスエースを奪いながらも、結局セットカウント1-3で敗れた試合は語り草になっている[2]。 ところが、世界トップ選手の仲間入りを果たしてすぐに、彼は右肩の故障を抱えるようになる。ウィンブルドン選手権3回戦でフェルナンド・ゴンサレスに敗れた後、直後の地元開催のスウェーデン・オープンに出場し、ヨナス・ビョルクマンと組んだダブルスで優勝した。これが彼の唯一のダブルスのタイトルである。スウェーデン・オープン終了後、ヨハンソンは右肩の手術を受け、2005年後半の試合に出場できなくなった。手術後の経過が思わしくなく、その後も度重なる故障と病気に悩み、2004年の好調時のようなテニスを取り戻すことができなかった。

2007年1月、ヨアキムに一時復調の兆しが見えた試合があった。2年前の2005年に優勝した年頭のネクストジェネレーション・アデレード国際で、彼は当時19歳のノバク・ジョコビッチとの準決勝まで勝ち進んだ。しかし、すぐ後の全豪オープンは1回戦の第1セットで、2ゲームだけで途中棄権に追い込まれる。同年10月の地元開催のストックホルム・オープンが、当年度の最後の試合出場になった。度重なる故障や病気から回復できず、2008年2月に現役引退会見を開いた。

引退会見の後、ヨアキムはジュニア選手のコーチなどに携わりながらリハビリに励んでいた。10月のストックホルム・オープンにて、当初出場予定だったロジャー・フェデラーが欠場したため、その代役として急遽出場することになる。ヨアキムにとっては、前年の同大会以来ちょうど1年ぶりのツアー出場だった。この大会では、1回戦でニコラ・マユに7-5, 7-6で勝った後、2回戦で第1シードのダビド・ナルバンディアンに3-6, 2-6で敗れた。その後も本格復帰には至っていないが、2009年以降もエキシビジョン大会やチャレンジャー大会に出場するなど断続的なツアー参加を行った。

デビスカップ2011ワールドグループ1回戦対デビスカップロシア代表戦に出場し、ティムラズ・ガバシュビリを6-3, 7-6(4), 6-4で破りチームの勝利に貢献した。しかし、2011年3月18日に28歳で2度目の現役引退を発表した[3]

2013年10月、2年半ぶりに現役復帰し地元のストックホルム・オープンのシングルス予選に主催者推薦で出場した。予選3試合を勝ち上がり1回戦でアレハンドロ・ファジャを6-1, 6-3で破り2回戦でミロシュ・ラオニッチに2-6, 6-7(3)で敗れた。

ATPツアー決勝進出結果

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シングルス: 3回 (3勝0敗)

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大会グレード
グランドスラム (0-0)
テニス・マスターズ・カップ (0-0)
ATPマスターズシリーズ (0-0)
ATPインターナショナルシリーズ・ゴールド (1-0)
ATPインターナショナルシリーズ (2-0)
サーフェス別タイトル
ハード (1-2)
クレー (0-0)
芝 (0-0)
カーペット (0-0)
結果 No. 決勝日 大会 サーフェス 対戦相手 スコア
優勝 1. 2004年2月16日   メンフィス ハード (室内)   ニコラス・キーファー 7–6, 6–3
優勝 2. 2005年1月3日   アデレード ハード   テーラー・デント 7–5, 6–3
優勝 3. 2005年2月7日   マルセイユ ハード (室内)   イワン・リュビチッチ 7–5, 6–4

ダブルス: 2回 (1勝1敗)

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結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
優勝 1. 2005年7月11日   ボースタード クレー   ヨナス・ビョルクマン   ホセ・アカスソ
  セバスティアン・プリエト
6–2, 6–3
準優勝 1. 2006年6月12日   ハーレ   マラト・サフィン   ロジャー・フェデラー
  イブ・アレグロ
5–7, 6–7(6), 3–6

4大大会シングルス成績

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略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 2003 2004 2005 2006 2007 通算成績
全豪オープン 1R 3R 4R A 1R 5–4
全仏オープン LQ 1R A A A 0–1
ウィンブルドン LQ 4R 3R A A 5–2
全米オープン 1R SF A A A 5–2

脚注

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外部リンク

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