ムーレイ・アル=ラシード
モロッコの国王
ムーレイ・アル=ラシード(アラビア語: مولاي الرشيد , 1631年 - 1672年4月9日)は、モロッコのスルターン(在位:1666年 - 1672年)[1]。アラウィー朝の始祖ムーレイ・シャリーフの息子で、同朝では3代目[2]。1635年、ムーレイ・シャリーフは長男のムハンマド・イブン・シャリーフにスルタン位を譲った。ムーレイ・シャリーフの崩御後ムハンマドがタフィラルト、ドラア川、アラウィー朝支配下のサハラ地域を継承したが、兄弟間の抗争の末に1664年ムーレイ・アル=ラシードの軍がムハンマドを殺害し、アル=ラシードがスルタンとなった。
ムーレイ・アル=ラシード مولاي الرشيد | |
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アラウィー朝のスルターン | |
在位 |
タフィラルト太守:1664年 - 1666年 モロッコのスルターン:1666年 – 1672年 |
出生 |
1631年 モロッコ、タフィラルト |
死去 |
1672年4月9日 モロッコ、マラケシュ |
王朝 | アラウィー朝 |
父親 | ムーレイ・シャリーフ |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
当初のアル=ラシードの領土や軍隊は弱小であったが、次第に力を伸ばしてタザを制圧し、次いで1666年にフェズに侵攻、北モロッコを支配していたディーラーイー教団を追放した。モロッコの北海岸を支配下に置いたのち、1669年にはマラケシュも征服した。スースやアンティアトラス山脈も征服され、アル=ラシードのもとでアラウィー朝によるモロッコ統一が完成した[3]。
1672年、アル=ラシードは落馬がもとでマラケシュで崩御し、異母弟のムーレイ・イスマーイールが継承した[4]。
英語圏では、アル・ラシードはタフィレッタ(英語: Tafiletta)の通称で呼ばれることもある。
脚注
編集- ^ Williams, Gerhild Scholz (2014-04-10) (英語). Mediating Culture in the Seventeenth-Century German Novel: Eberhard Werner Happel, 1647-1690. University of Michigan Press. pp. 162. ISBN 9780472119240
- ^ Messier, Ronald A.; Miller, James A. (2015-06-15) (英語). The Last Civilized Place: Sijilmasa and Its Saharan Destiny. University of Texas Press. pp. 151. ISBN 9780292766655
- ^ Messier, Ronald A.; Miller, James A. (2015-06-15) (英語). The Last Civilized Place: Sijilmasa and Its Saharan Destiny. University of Texas Press. pp. 153. ISBN 9780292766655
- ^ Lemon, Mark; Mayhew, Henry; Taylor, Tom; Brooks, Shirley; Burnand, Sir Francis Cowley; Seaman, Sir Owen (1951) (英語). Punch. Punch Publications Limited. pp. 689
関連項目
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