ムーサ
ムーサ(古代ギリシア語: Μοῦσα〔Mousa〕 ラテン語: Musa)またはムサは、技芸[1]・文芸・学術・音楽・舞踏などを司るギリシア神話の女神[2]。
ムーサが司る技芸は古代ギリシア語でムーシケー(古希: μουσική〔mousikē〕[1])と言い、そこに含まれているのは科学的音楽理論に関連する芸術全般[3]・さまざまなリズムによる時間芸術(音芸術・詩の朗誦の芸術・舞踊など)[1]・総合芸術である[3]。ムーシケー(技芸)は、英語のミュージック(music)の語源[1][注釈 1]。
「ムーサ」の複数形はムーサイ[4](Mousai[4], 古希: Μοῦσαι, 羅: Musae)。英語・フランス語のミューズ (英語・フランス語単数形: Muse、フランス語複数形 Muses) やミューゼス (英語複数形: Muses) としても知られる。ドイツ語ではムーズ (Muse)、イタリア語ではムーザ (Musa) などとなる。
ムーサたちはパルナッソス山に住むとされており、またヘリコーン山との関係が深い。ヘリコーン山にあるアガニッペーの泉とヒッポクレーネーの泉を主宰する場合にローマ神話の泉の女神「カメーナエ」と同一視された(詳しくはペーガソスを参照のこと)。ムーサたちを主宰するのは芸術の神・アポローン(「アポローン・ムーサゲテース (Apollon Mousagetēs)」という別名を持つ)である。しばしば叙事詩の冒頭でムーサたちに対する呼びかけ(インヴォケイション)が行われる。なお『ホメーロス風讃歌』にはムーサたちに捧げる詩がある。
ムーサたちの一覧
編集ヘーシオドスの『神統記』によれば、大神ゼウスとムネーモシュネーの娘で9柱いるとされており、「黄金のリボンをつけたムーサたち」と形容することがある。別伝ではハルモニアーの娘とする説や、ウーラノスとガイアの娘とする説もある。ピーエリア王ピーエロスの娘・ピーエリスたち(ピーエリデス)とも同一視された。
古くはその人数は定まっておらず、ヘリコーン山で崇められた最初のムーサたちではウーラノスとガイアの娘であるアオイデー(歌唱 (Aoide))、ムネーメー(記憶 (Mneme))、メレテー(実践 (Melete))の3柱、それをムネーメーを除くテルクシノエー(魅惑 (Thelxinoe))とアルケー(始源 (Arche))を加えたゼウスとネダーの娘である4柱、レスボス島とシシリア島ではネイロー(Neilo)、トリトーネ(Tritone)、アソポー(Asopo)、ヘプタポラー(Heptapora)、アケロイース(Achelois)、ティポプロー(Tipoplo)、ローディア(Rhodia)の7柱とされていたが、ヘーシオドスによって9柱にまとめられた。その他、シキュオーンやデルポイではネテー(Nete)、メセー(Mese)、ヒュパテー(Hypate)の3柱で、竪琴の3本の弦の化身であった。また、アポローンの娘であるケフィソー(Kephiso)、アポローニス(Apollonis)、ボリュステーニス(Borysthenis)の3柱とする説もある。
アルクマーンによる3柱
編集アルクマーンによると、ウーラノスとガイアの娘。主に詩歌の形式と技巧を司る。
ムーサ | el | la | 名前の意味 |
---|---|---|---|
アオイデー | Αοιδή | Aoide | 歌唱 |
ムネーメー | Μνήμη | Mneme | 記憶 |
メレテー | Μελέτη | Melete | 実践 |
キケローによる4柱
編集キケローによると、ゼウスとネダー(またはプルシアー(Plusia))の娘。主に曲芸の形式と技巧を司る。
ムーサ | el | la | 名前の意味 |
---|---|---|---|
テルクシノエー | Θελξινόη | Thelxinoe | 魅惑 |
アオイデー | Αοιδή | Aoide | 歌唱 |
アルケー | Αρχή | Arche | 始源 |
メレテー | Μελέτη | Melete | 実践 |
ヘーシオドスによる九姉妹
編集9柱それぞれの名前と司る分野、および持ち物は以下の通り。
ムーサ | el | la | 分野 | 持ち物 | 名前の意味 |
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カリオペー (カリオペイア) |
Καλλιόπη | Calliope | 叙事詩 | 書板と鉄筆 | 美声 |
クレイオー (クリーオー) |
Κλ(ε)ιώ | Clio | 歴史 | 巻物または巻物入れ | 讃美する女 |
エウテルペー | Εὐτέρπη | Euterpe | 抒情詩 | 笛 | 喜ばしい女 |
タレイア | Θάλεια | Thalia | 喜劇・牧歌 | 喜劇用の仮面・蔦の冠・羊飼いの杖 | 豊かさ |
メルポメネー | Μελπομένη | Melpomene | 悲劇・挽歌 | 悲劇用の仮面・葡萄の冠・悲劇の靴 | 女性歌手 |
テルプシコラー | Τερψιχόρα | Terpsichore | 合唱・舞踊 | 竪琴 | 踊りの楽しみ |
エラトー | Ἐρατώ | Erato | 独唱歌 | 竪琴 | 愛らしい女 |
ポリュムニアー (ポリュヒュムニアー) |
Πολυ(υ)μνία | Poly(hy)mnia | 讃歌・物語 | - | 多くの讃歌 |
ウーラニアー | Οὐρανία | Urania | 天文 | 杖・渾天儀・コンパス | 天上の女 |
当初は特定の分野が割り当てられず、音楽・詩作・言語活動一般を司る知の女神たちであったようだが、古典期を通じてローマ時代の後期には各ムーサがつかさどる学芸の分野が定められ、現在広く知られる形が出来上がった。またツェツェース(Tzetzes, およそ1110年 - 1180年)による著作ではカリコレ (Kallichore)、ヘリケ (ヘリケー、Helike)、エウニケ (エウニーケー、Eunike)、テルクシノエ (テルクシノエー、Thelxinoe)、テルプシコラ (テルプシコラー、Terpsichore)、エウテルペ (エウテルペー、Euterpe)、エウケラデ (Eukelade)、ディア (ディーア、Dia)、エノペ (Enope)といった9柱のムーサが述べられている。
神話には、音楽の競技の場合に登場することが多い。アポローンとマルシュアースの音楽合戦の審判役をつとめたほか、タミュリス、セイレーンたちやピーエリスたちなどが、ムーサたちと歌比べの勝負を挑んだが敗北した神話が残っている。
文化への影響
編集ヨーロッパの多くの言語では、下記のとおり「音楽」を意味する語、また「美術館/博物館」を意味する語がこの名前から派生した。
ラテン語 | イタリア語 | フランス語 | ドイツ語 | 英語 | |
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音楽 | Musica | Musica | Musique | Musik | Music |
美術館/博物館 | Museum | Museo | Musée | Museum | Museum |
古典古代の学堂であったムセイオンは、もとは文芸の女神ムーサを祀る神殿であったが、後に文芸・学問を研究する場にも使われるようになった。ルネサンス以降に西洋に博物館が成立した際に、ムセイオンの名が復活している。
ルネサンス期以降、ムーサたちにちなんで、Gradus ad Parnassum 『パルナッソスへの階梯』という名の詩学・音楽教本が多く書かれた。ドビュッシーのピアノ組曲「子供の領分」に含まれる第1曲「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」は、これにちなんだ題名で、これから始まる組曲の開始曲として配置されている。
ギャラリー
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ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ『9人のムーサと古き3柱のムーサ』(1884年と1889年の間) リヨン美術館所蔵
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ウスタシュ・ル・シュウール『メルポメネー、エラトー、ポリュヒュムニアー』(1652年と1655年の間) ルーヴル美術館所蔵
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ウスタシュ・ル・シュウール『クレイオー、エウテルペー、タレイア』(1652年と1655年の間) ルーヴル美術館所蔵
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ピエール・ミニャール『カリオペー、ウーラニアー、テルプシコラー』(1746年) フォンテーヌブロー宮殿所蔵
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ピエール・ミニャール『エウテルペーとクレイオー』(1746年) フォンテーヌブロー宮殿所蔵
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ギュスターヴ・モロー『アポローンと9人のムーサ』(1856年) 個人蔵
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コンスタンチン・マコフスキー『ムーサの詩歌』(1886年) 個人蔵
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ロバート・ファガン『ウーラニアー、エラトー、カリオペー』(1793年と1795年の間) アッティンガム・パーク所蔵
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ロバート・ファガン『テルプシコラーとポリュヒュムニアー』(1793年と1795年の間) アッティンガム・パーク所蔵
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ロバート・ファガン『クレイオーとタレイア』(1793年と1795年の間) アッティンガム・パーク所蔵
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ロバート・ファガン『エウテルペーとメルポメネー』(1793年と1795年の間) アッティンガム・パーク所蔵
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考資料
編集- アポロドーロス『ギリシア神話』高津春繁訳、岩波書店(1953年)
- 呉茂一『ギリシア神話 上・下』新潮文庫(1979年)
- 高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』岩波書店(1960年)
- 中山, 明慶「ギリシア音楽」『日本大百科全書』DIGITALIO、2022年 。「古代ギリシア人は科学的洞察力によって音楽の観察を行い、優れた音楽理論書を残し、これは続く中世の音楽理論の基礎となった。近代欧米のmusicなどの音楽総称語の語源が、この古代ギリシアのムーシケーmousikeに由来していることからも、古代ギリシア音楽がヨーロッパ音楽の大きな源となっていることがわかる。このムーシケーは、芸術全般、詩や音楽、舞踊をも含めた総合芸術の意味があり、今日の音楽の意味より幅広い。」
- パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年)
- フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、青土社(1991年)
- 平凡社「音楽(ミューズ)」『世界大百科事典』DIGITALIO、2022年 。
- ヘーシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波書店(1984年)
- 松村, 明「ミューズ」『デジタル大辞泉』DIGITALIO、2022年 。