マーティン・アーチャー・シー
マーティン・アーチャー・シー(Sir Martin Archer Shee PRA FRS 、1769年12月23日 – 1850年8月13日)はアイルランド生まれの画家である。イングランドで肖像画家として働き、1830年から亡くなるまで、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会長を務めた。
マーティン・アーチャー・シー Martin Archer Shee | |
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自画像 | |
生誕 |
1769年12月23日 ダブリン |
死没 |
1850年8月13日 ブライトン |
略歴
編集ダブリンの代々続いた商人の家に生まれた。父親は画家になることに反対したが、ダブリンの芸術学校(Royal Dublin Society)で美術を学んだ後、ロンドンに移った。1788年にアイルランド出身の下院議員、エドマンド・バークに画家のジョシュア・レノルズを紹介され、レノルズの勧めで、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校で学んだ[1]。
1789年にアカデミーの展覧会に2点の作品を出展し、その年にアイルランドの女性と結婚した。その後も修行を続け、1798年にアカデミーの準会員に選ばれ、1800年に正会員に選ばれた。有名な肖像画家、ジョージ・ロムニーが引退した後、ロンドン、ウエスト・エンドのロムニーが住んでいた邸に移った。
マーティン・アーチャー・シーの肖像画は、同時代の肖像画家、トーマス・ローレンスに比べると人気は劣ったが、軍服姿の国王ウィリアム4世の肖像画や、上流階級の人々の肖像画を描いた。アカデミーの会員資格取得作品では歴史画も描いた。
1805年、1809年に詩集を出版し、詩人のバイロンから評価された。戯曲や小説も執筆した。
1830年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会長であったトーマス・ローレンスが亡くなった後、会長を継いだ。その少し後、ナイトの称号を受けた[2] 。1831年に王立協会フェローに選ばれた。1842年から1849年の間は、王立バーミンガム芸術家協会の初代会長も務めた[3]。
1845年に病気のためイングランド南東部のブライトンに引退し、そこで没した。
作品
編集-
Major O'Shea of the Loyal Cork Legion
南オーストラリア美術館 蔵
文学作品
編集- Elements of art, a poem; in six cantos (1809)
- Rhymes on Art; Or, The Remonstrance of a Painter: in Two Parts (1809)
- The Commemoration of Reynolds: In Two Parts (1814)
- Oldcourt: Volume 1, Volume 2, Volume 3 (London : H. Colburn, 1829)
- Alasco: A Tragedy, in Five Acts (Sherwood, Jones, and co., 1824).
- 自伝:Martin Archer Shee, The Life of Sir Martin Archer Shee, Volume 1, Volume 2 (London: Longman, Green, Longman, and Roberts, 1860).[4]
脚注
編集- ^ THE EUROPEAN MAGAZINE, AND LONDON REVIEW: ILLUSTRATIVE OF THE LITERATURE, HISTORY, BIOGEAPHY, POLITICS, ART, MANNERS, AND AMUSEMENTS OF THE AGE.
- ^ “Library and Archive catalogue”. Royal Society. 28 February 2012閲覧。[リンク切れ]
- ^ Anon (1933). The Spring Exhibition, 1933 (catalogue). RBSA.
- ^ “Review of The Life of Sir Martin Archer Shee, President of the Royal Academy by his son, Martin Archer Shee, of the Inner Temple, Esq. Barrister-at-Law, 2 vols.”. The Athenaeum (1700): 711–713. (May 26, 1860) .
参考文献
編集- Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Shee, Sir Martin Archer" . Encyclopædia Britannica (11th ed.). Cambridge University Press.
先代 トーマス・ローレンス |
王立芸術院院長 1830年 – 1850年 |
次代 チャールズ・ロック・イーストレイク |