ヘスス・マリア・ドゥニャベイティア
ベティ・ドゥニャベイティア(Beti Duñabeitia)[1]ことヘスス・マリア・ドゥニャベイティア・ビダル(Jesús María Duñabeitia Vidal、1929年 - 2013年11月26日)は、スペイン・ビスカヤ県ビルバオ出身のバスク民族主義者、政治家、スポーツエグゼクティブ。
ヘスス・マリア・ドゥニャベイティア Jesús María Duñabeitia | |
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生年月日 | 1929年11月26日 |
出生地 | ビスカヤ県ビルバオ |
没年月日 | 2013年11月26日(84歳没) |
死没地 | ビスカヤ県ビルバオ |
前職 | ビルバオ市長 |
所属政党 | バスク民族主義党(PNV) |
ビルバオ市長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1990年12月20日 - 1991年6月14日 |
経歴
編集ドゥニャベイティアは1937年、ビルバオのサスピカレアク地区の商人一家に生まれた。父親のアルベルト・ドゥニャベイティア・モタは、RCDエスパニョールやアスレティック・ビルバオに所属したプロサッカー選手だった[2]。父親の影響で、少年時代はバスク・ペロタやサッカーなど球技に熱中した。
1977年にはバスク民族主義党(PNV)の支持を得て、アスレティック・ビルバオ会長選挙に立候補して当選した[3]。1982年まで同クラブの会長職を務めた。2019年時点では、ソシオ会員代表候補として当選した最後の会長である。ドゥニャベイティアの会長任期中、彼の指示で公的な場での掲示が永らく禁止されていたイクリニャ旗のエスタディオ・サン・マメスでの掲揚が、クラブ公式儀礼として復活した[4]。また、会長退任後はスペインサッカー連盟の役員にも任命されている[5]。
1983年にはバスク民族主義党の候補としてビルバオ市議会議員に当選。ホセ・ルイス・ロブレス市長によって社会福祉分野の責任者に任命され、ほどなくしてビルバオ水道共同事業体の理事にもなった。1987年にはビルバオ市議会議員に再当選した。
1990年にホセ・マリア・ゴロルド市長が辞任すると、バスク民族主義党・バスク社会党陣営のビルバオ市長候補となり、ビルバオ市長に選出された[6]。
1991年スペイン地方自治体選挙には出馬しなかった。
2013年11月26日、長い闘病生活を経て84歳で亡くなった[7]。
脚注
編集- ^ “Muere Duñabeitia, exalcalde y presidente del Athletic”. エル・コレオ. 2013年11月27日閲覧。
- ^ “LOS DUÑABEITIA, UNA FAMILIA DE ARTISTAS Y DEPORTISTAS”. BLOG DE CESAR ESTORNES de HISTORIA Y DEPORTES. 2014年12月27日閲覧。
- ^ “Muere Duñabeitia, exalcalde y presidente del Athletic”. エル・コレオ. 2013年11月27日閲覧。
- ^ “Entrevista a Jesús María Duñabeitia”. アスレティック・ビルバオ公式サイト. 2006年6月5日閲覧。
- ^ “«El expresidente del Athlétic Duñabeitia, directivo federativo»”. エル・パイス. 1982年9月28日閲覧。
- ^ “Duñabeitia fue elegido alcalde de Bilbao con el apoyo de los socialistas”. ABC. 1990年12月21日閲覧。
- ^ Josu García. “Muere Duñabeitia, exalcalde y presidente del Athletic”. エル・コレオ. 2013年11月27日閲覧。