フルー・マクミラン
フルー・マクミラン(Frew McMillan, 1942年5月20日 - )は、南アフリカ・スプリングス出身の男子テニス選手。フルネームは Frew Donald McMillan (フルー・ドナルド・マクミラン)という。1960年代後半から1970年代にかけて、ダブルスの名手として活躍し、とりわけボブ・ヒューイットとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。キャリアの後半には、オランダのベティ・ストーブとの混合ダブルスで多くの好成績を出した。彼はフォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、いつも白い帽子をかぶってプレーしたので、誰からも見分けのつく選手だったという。
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フルー・マクミラン | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Frew Donald McMillan | |||
国籍 | 南アフリカ共和国 | |||
出身地 | 同・スプリングス | |||
生年月日 | 1942年5月20日(82歳) | |||
身長 | 183cm | |||
体重 | 75kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 両手打ち | |||
殿堂入り | 1992年 | |||
生涯獲得賞金 | 609,072 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 1回戦(1971) | |||
全仏 | 3回戦(1967・71・72) | |||
全英 | 3回戦(1970・78) | |||
全米 | ベスト8(1972) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 1回戦(1971) | |||
全仏 | 優勝(1972) | |||
全英 | 優勝(1967・72・78) | |||
全米 | 優勝(1977) | |||
優勝回数 | 5(仏1・英3・米1) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全仏 | 優勝(1966) | |||
全英 | 優勝(1978・81) | |||
全米 | 優勝(1977・78) | |||
優勝回数 | 5(仏1・英2・米2) | |||
国別対抗戦最高成績 | ||||
デビス杯 | 優勝(1974) | |||
来歴
編集マクミランは1965年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップの南アフリカ代表選手になり、1978年までその位置にあったが、14年間の代表経歴を通じてシングルス戦出場は2試合のみで、ごく早い時期からダブルスのスペシャリストとして活動を始めた。最初期のマクミランは、デビスカップのダブルスでキース・ディープラーム(Keith Diepraam)とペアを組んでいた。1966年、マクミランは全仏選手権の混合ダブルスでアネッテ・バン・ジル(同じ南アフリカの選手)とペアを組み、ここで最初の4大大会タイトルを獲得した。この年にボブ・ヒューイットと出会い、彼とのコンビで多数のタイトルを獲得し始める。ヒューイットはオーストラリア出身の選手であるが、南アフリカの女性との結婚により、1964年にオーストラリアを離れて南アフリカ市民権を取得した。1967年のウィンブルドン選手権で、マクミランはヒューイットとのコンビで初めての4大大会男子ダブルス優勝を果たす。パートナーのヒューイットは、まだオーストラリアにいた頃の1962年・1964年にフレッド・ストールと組んでウィンブルドン男子ダブルスに2勝を挙げていたが、マクミランにとっては初栄冠だった。
それから5年後の1972年、マクミランとヒューイットは全仏オープンとウィンブルドンで4大大会男子ダブルス2連勝を達成した。しかし、2人にはまだ全米オープンが残っていた。ようやく1977年、2人は全米オープン男子ダブルス決勝でブライアン・ゴットフリート(アメリカ)&ラウル・ラミレス(メキシコ)組を 6-4, 6-0 で破り、初優勝を決めた。1978年のウィンブルドンで、マクミランとヒューイットは若きジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組を 6-1, 6-4, 6-2 で破り、最後のタイトルを6年ぶりのウィンブルドンで獲得した。
シングルスでのマクミランは、1972年全米オープンのベスト8が自己最高成績であった。この準々決勝で、マクミランはクリフ・リッチー(ナンシー・リッチーの弟)に 6-3, 1-6, 4-6, 2-6 で敗れた。全仏オープンは1967年・1971年の3回戦、ウィンブルドンは1970年・1978年の3回戦が最高成績であり、全豪オープンは1971年が唯一の出場で、1回戦敗退に終わっている。
混合ダブルスでは、キャリアの後半期を迎えた1977年から1981年にかけて好成績が多かった。マクミランはオランダのベティ・ストーブと組み、ヒューイットは同じ南アフリカのグリア・スティーブンスと組んで、混合ダブルスで決勝対決をすることが多かった。マクミランとストーブは、全米オープンの混合ダブルスで1977年から1980年まで4年連続決勝進出を果たし、ウィンブルドンの混合ダブルスでも1977年-1979年・1981年の4度決勝に進み、総計8度の4大大会混合ダブルス決勝戦を戦った。そのうち、全米オープンは1977年と1978年に2連覇を達成し、ウィンブルドンは1978年と1981年に2勝を挙げている。1977年全米オープンと1978年ウィンブルドンでは、マクミランは男子ダブルス・混合ダブルスの2部門制覇を成し遂げた。彼の最後の4大大会優勝となった1981年ウィンブルドンの混合ダブルス決勝では、マクミランとストーブはジョン・オースチン&トレーシー・オースチン組(アメリカ、この2人は兄妹)に 4-6, 7-6, 6-3 の逆転勝利を収めた。
フルー・マクミランは1965年から1978年まで14年間デビスカップの南アフリカ代表選手を務め、通算「25勝5敗」(シングルス2勝0敗、ダブルス23勝5敗)の記録を残した。彼のダブルス総計勝利数(23勝5敗)と、マクミラン&ヒューイット組によるダブルス通算「16勝1敗」の記録は、今なおチーム歴代1位記録として残っており、2人は南アフリカの「ベスト・ダブルス・チーム」(Best Doubles Team)として記録されている。しかし、南アフリカは1979年からアパルトヘイトのためデビスカップ出場資格を剥奪され、1992年までデ杯復帰を認められなかった。1992年、マクミランとヒューイットは南アフリカのテニス選手として、2人一緒に史上初の国際テニス殿堂入りを果たした。しかしヒューイットは教え子の女性に対する性的虐待の疑いで2012年に資格停止となった。現在はテニス解説者として活動している。
4大大会ダブルス優勝
編集- 全仏オープン 男子ダブルス:1勝(1972年)/混合ダブルス:1勝(1966年)
- ウィンブルドン選手権 男子ダブルス:3勝(1967年・1972年・1978年)/混合ダブルス:2勝(1978年・1981年)
- 全米オープン 男子ダブルス:1勝(1977年)/混合ダブルス:2勝(1977年&1978年)
参考文献
編集- Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3