ビーバー (タレント)

日本のタレント、女優

ビーバー1948年2月5日[注釈 1][1] - )は、日本タレント女優

ビーバー
本名 伊藤 マサ美
別名義 川口 まさみ
生年月日 (1948-02-05) 1948年2月5日(76歳)
出生地 日本の旗 日本東京都台東区
身長 162cm
職業 タレント女優・ラジオパーソナリティ
活動期間 1960年代 - 1970年代
事務所 ボンド企画
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主に1960年代から1970年代にかけて活動、ボンド企画に所属していた[2]

本名、伊藤 マサ美(いとう まさみ)[3][1]。デビュー当初の芸名は川口 まさみ(かわぐち まさみ)。

略歴・人物

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東京都台東区出身[1]。実家は酒屋[1]1970年当時の公称サイズは身長162cm、B83cm、W57cm、H82cm[3]。3人兄妹の末っ子で、兄2人がいる[1]。その風貌からハーフと見られがちなこともあったが、両親とも日本人であるため、彼女も純日本人である[1]

子供の頃から日本舞踊を習う[1]台東区立忍岡中学校に在学していた[4]中学生時代は陸上競技[5]バレーボールをやっており、バレーボール部ではキャプテンだった[1]。中学生時代は「男っぽいくせに女っぽい」という評判があったという[5]。高校は二階堂高等学校(現・日本女子体育大学附属二階堂高等学校)に進学し、高校時代の部活はバスケットボール[5]

1965年公開の映画『赤ひげ』の加山雄三の相手役を捜すために本作の製作サイドから日本全国の高校に候補者の推薦が依頼され、二階堂高校からも十数人が推薦されてこの中にビーバーも入っていた。そして全国約16,000人の候補者の中からビーバーがその相手役に選ばれたが、背が高いという理由から最終的にその相手役(まさえ役)は内藤洋子に変更された[1]

高校卒業後はホテルオークラに就職するが、同ホテルの結婚式場で撮影した、ビーバーが入っていた写真が日本全国の写真コンクールで2位に選ばれたことがきっかけでビーバーの元にモデルの仕事依頼が殺到[1]し、これが元で同ホテルの宣伝部の人に勧められたこともあって[6]、ホテルオークラは約1年半務めた後に退職、そこからの転職先も3か月後に辞めてモデル界に入ることとなった[1]

そのモデルとして活動していた頃に、ニッポン放送ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ『パンチガール』のオーディションに臨み、高橋基子シリア・ポールと共に合格して、同番組はこの3人を初代パーソナリティとしてスタート。この3人で「モコ・ビーバー・オリーブ」として活動し、レコードデビューも果たした。このオーディションに立ち会っていた亀渕昭信の話によると、モコ(高橋)とオリーブ(シリア)はすぐに決まったそうだが3人目の選定に難航し、何回もオーディションを重ねていく中である日、ファッションショーに出たその帰りだというドレス姿のビーバーがオーディション会場に入って来て、その時ちょうど一杯呑んだような機嫌で、そこでの第一声が「あたし酔っ払っちゃったのよ」だったということで、面白い女の子だなと思って合格させたという[5]。亀渕は、この当時のビーバーについて「酒は強い」と証言しており[5]、また「気分次第で角瓶一本は軽い」とも紹介されたことがある[3]。なお『ビーバー』とは、本人曰く中学生時代からのあだ名をそのまま芸名にしたものである[7]

その後ソロでもレコードをリリースしたことがある。ラジオパーソナリティの他、女優として映画、テレビドラマに出演、バラエティ番組でも司会などでレギュラー出演を務めていた。「口の早さが売り物」と紹介されたことがある[7]

1981年の時点で、既に結婚・引退したという情報がある[8][9]

出演

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映画

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テレビ

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ドラマ

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バラエティ

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ラジオ

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音楽作品

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シングル

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モコ・ビーバー・オリーブ
  • わすれたいのに(詞:奥山侊伸、曲:L.Kolber、編曲:ありたあきら 1969年2月1日 東芝EMI)- B面『シックスティーン・リーズン』
  • 幸せすぎたの(訳詞:高階有吉、曲:B.Lowe、編曲:ありたあきら 1969年 東芝EMI)- B面『ささやく天使』
  • 海の底でうたう唄(詞:尾崎きよみ、曲:関口直人、編曲:青木望 1969年12月20日 東芝EMI)- B面『タイム・アフター・タイム』
ソロ

アルバム

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モコ・ビーバー・オリーブ
  • わすれたいのに(1969年9月、1993年及び2003年に限定再盤)
わすれたいのに、シークレット・ラヴ、つのる想い、アンチェインド・メロディー、やさしくしてね、オー・ディオ・ミオ、幸せすぎたの、ささやく天使、愛の誓い、夢をみるだけ、タイム・アフター・タイム、シックスティーン・リーズン
以下は1993年盤ボーナス・トラック - 海の底でうたう歌、雨のくちづけ、百粒の涙、しあわせの鐘、愛のひとこと

脚注

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注釈

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  1. ^ 週刊平凡 1973年11月22日号(p.136-141)などいくつかの雑誌等においては、この生年月日が公表されていたが、朝日新聞 1973年7月16日朝刊24面(テレビ欄)『今週の顔』では「芸能界入りした時、年齢を一つサバ読んだ」と公言している。
  2. ^ 出演した当時は日本テレビ系列とNET(現・テレビ朝日)系列のクロスネット局であった。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 週刊平凡 1973年11月22日号 p.136-141「シリーズおふくろ 第95回」
  2. ^ 上野修 著『ミスター・ラジオが通る』実業之日本社、1986年6月20日、53頁。NDLJP:12276169/29 
  3. ^ a b c 週刊文春 1970年12月21日号 p.15-17「この人を・ビーバー」
  4. ^ 週刊明星 1972年11月13日号 p.58
  5. ^ a b c d e f 週刊明星 1972年11月26日号 p.58-59
  6. ^ a b c d セブンティーン集英社)1971年10月5日号「ビーバーの八方破れ職業論」
  7. ^ a b 朝日新聞 1973年7月16日朝刊24面(テレビ欄)『今週の顔』より。
  8. ^ ニッポン放送 ザ・パンチ・パンチ・パンチ・編『グッバイ・バージン もう子供じゃないの』(サンケイ出版、1981年9月、p.204-205「ザ・パンチ・パンチ・パンチ タレント系譜」)
  9. ^ 月刊ラジオパラダイス 1989年8月号メイン特集『ニッポン放送35周年グラフィティ』p.34『「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」ヒストリー』
  10. ^ 名古屋放送株式会社社史編集委員会 編『希望の泉 2』名古屋放送、1982年4月1日、101頁。NDLJP:12274809/133 
  11. ^ 開局50周年記念社史編纂事務局 編『名古屋テレビ放送50年史』名古屋テレビ放送、2012年、80頁。 
  12. ^ 1975年4月6日山陽新聞(瀬戸内海テレビ、広島ホームの番組表)
  13. ^ 週刊明星 1972年12月3日号 p.124