ビルマ式社会主義
ビルマ式社会主義(ビルマしきしゃかいしゅぎ)とは、正確には「社会主義へのビルマの道」(ビルマ語: မြန်မာ့နည်းမြန်မာ့ဟန် ဆိုရှယ်လစ်စနစ်; 英語: Burmese Way to Socialism)と呼ばれ、1960年代から1980年代にかけてビルマ(ミャンマー)で提唱された、社会主義の一潮流である。
概要
編集1962年3月、ネ・ウィン率いる軍部はクーデター(en)を引き起こしウー・ヌ政権を崩壊させた。それから間もない翌4月、政権を掌握した軍部によって作られた連邦革命評議会は、経済発展の雛形として、また国内における海外の影響の排除、軍の権限の拡大を目的として[1]社会主義路線の採用を発表。科学的社会主義を否定し、(ビルマ族の主要宗教である)仏教を社会主義の根幹に据えた。アウンサンは社会主義を志向していたが、独立前に政敵であるウー・ソーらに暗殺されてしまった。独立後には首相となったウー・ヌが限定的な社会主義政策を実施していたが、この中には仏教徒であるビルマ族を優遇するなど後に火種になる政策もあった。しかし、全面的に社会主義路線を実行に移したのはネ・ウィンであった。
思想的にはいわゆる仏教社会主義に拠っている側面が大きい。「ビルマ社会主義への道」と題された小冊子ではマルクス主義の影響を認めつつ、唯物論には反対し、仏教を代わりに採用するとし、ビルマ共産党とは対立した。1974年2月のニューズウィークには「仏教とマルクス主義の論理のアマルガム」と評されている。ビルマの独立運動に日本軍が関わった事やネ・ウィンの前歴などから、戦前の日本の統制経済からの影響も指摘される場合がある。ただし、農業は国有化が実施されず、農作物の政府による強制買取にとどまった。都市部の個人商店は全て国営となり、店舗ごとにナンバーが付与される有様であった。旧ユーゴスラビアからの技術的支援を受けて工業化も進められたが、後述の「鎖国」政策による在外資本の排除や社会主義政策による非効率により達成される事は無かった(ただし軍需産業のみは例外であり、旧西ドイツのヘッケラー&コッホ社とのライセンス契約により同社のG3自動小銃の製造工場が国内に建設されるなど、兵器・弾薬の国産化は強力に推し進められた)。
民族主義的政策として、外国資本の排除の他、外国人の短期入国(1970年代には入国した外国人は24時間以内に退去しなければならないという法令が出された)さえも拒否して事実上の「鎖国」体制を築いた。外交的には旧東側諸国とは旧ユーゴスラビアを除いて疎遠であり、旧東側諸国はビルマ式社会主義を「紛い物の社会主義」と非難した。ビルマは東南アジアでは早い時期に中国を承認した国であったが、中国がビルマ共産党に対する軍事支援を開始すると、一気に対立状態に至った。このため限定的にアメリカや東南アジア諸国と外交関係を築いていた。
アメリカは1962年のネ・ウィンによるクーデターに対する評価に困惑しており、彼を「左翼革命家」として糾弾する強硬派も存在した。しかし、社会主義政策をとる一方でビルマ共産党と激しく軍事衝突している事、ビルマが国内に「黄金の三角地帯」の一角を有するもネ・ウィンがこれに毅然とした態度を取っている事は、アメリカの国務省や麻薬取締局などの関心をひきつけた。一方、ネ・ウィンも口頭でアメリカの外交方針を批判しても、直接的な反米政策は取らず、(軍事協定を含む重要な協定を破棄したものの)基本的な外交関係が維持される事となった。その結果、ネ・ウィン政権は1980年代半ばまで限定的にアメリカの支援を受けていた。
在外資本や在外文化は「ビルマの価値を損なう」として基本的に拒絶の姿勢を取った。特に旧宗主国のイギリスについては影響の排除が徹底的に図られ、1970年には対面交通がイギリス式の左側通行から右側通行に変更された。また、それまでビルマ国内で活動していた海外企業、世界銀行などの国際機関や外国の各種団体(ミッションスクールを運営するキリスト教団体やNGOなど)も閉鎖や追放となった。先に記したように農業においては完全な国営化は実施されなかったものの、小作農から地主への小作料の支払いが廃止された。これにより、イギリス統治時代から存在していたインド系の地主が生活基盤を失い、その多くがインドに引き揚げる事となった。また、ナイトクラブ、ダンスホール、競馬場、レストランといった各種遊興施設も閉鎖が強行された。
半土着化していた華僑や印僑の商店や企業も強制的に閉鎖されて、その穴埋めとして軍人が経営に乗り出す事となった。経営や商業の実務に未熟な軍人が乗り出すことによって経済は混乱した。また、彼らの出身国である中国やインドとの関係も緊張する事となった。
また、ウー・ヌ政権同様、仏教をビルマ式社会主義の根幹の一つとしている事から、キリスト教の多いカレン族やカチン族などを追いやる事となり民族紛争の要因ともなった。また、シャン族の多いシャン州は独立前のパンロン会議においてビルマ政府に不満の際には自治独立を認める条項を取り付けていたが、クーデターによりネ・ウィンは事実上これを反故にした。また、ビルマ式社会主義体制確立後にシャン州の藩王も次々に強権的に取りつぶされた事から反発は強まり、シャン族ばかりでなくワ族やコーカンまでもが反旗を翻し、シャン州はビルマ政府の支配権の及ばない地域となってしまった。中国国境に接している事もあって、当初は国共内戦で国を追われた中国国民党軍の一部部隊がシャン州に逃げ込み、後にはヤンゴンなどビルマ都市部から迫害され放逐されたビルマ共産党がシャン州に入り込んで中国の支援を取り付けてビルマ政府とゲリラ戦を繰り広げるに至った。
社会主義を名乗りながら同時に共産党と対立する事は、国民の間からも奇妙に思われ、「社会主義がどんなに酷い体制であるかを示すために、あえてそれを実行しているのだ」という揶揄がなされた。実際、文献によってはすでに1970年代から都市部を中心に生活必需品の供給が不足していた事を記している。また、ネ・ウィン体制下では大規模な粛清が何回か発生しており、その都度犠牲者が発生している。ただ、元より「乞食ですら米を受け取らない」と言われるほどの豊かな農業国であった事から、食料不足はほとんど生じず、ネ・ウィンも親族の政界や財界への縁故登用や国家財産の私物化など開発独裁国や一部の社会主義国で発生した権力の濫用がほとんど見られない事から、ビルマ共産党や少数民族諸勢力以外は反発は少なかった。とはいうものの、鎖国体制によりビルマ国内の医療が非常に立ち遅れている中、ネ・ウィン一族は年に数度はフランスを訪れ、先進国の高度な医療体制による健康診断を受けているといった面もあった。
62年のクーデターにより政党は全て解散・非合法化されて、表面的にはビルマ社会主義計画党による一党独裁制となった。しかし、「(ビルマ国民は)国軍を父とせよ」というスローガンに見られるように、現実的にはネ・ウィンの支持基盤は軍部であり、同党の党員の大半は軍人であった。さらに官僚に軍人を登用させたり、軍自体にビジネスを行なわせてたりするなど軍人の権限を大幅に強化する事に努めた。この軍部の強い関与と権威拡大はビルマ式社会主義の大きな特徴であり、同体制崩壊後のミャンマー軍事政権の大きな足がかりとなった。
1980年代にはいずれの政策も行き詰まりを見せ、他の社会主義諸国同様に闇経済がはびこる事となった。ネ・ウィン政権はこの闇経済に打撃を与えるべくチャットの一部廃貨など強硬策を打ち出した。これらの事も要因となり、1988年には8888民主化運動が勃発するに至った。その直後に発生した軍部のクーデターによりネ・ウィンは形式的には引退に追い込まれ、ビルマ式社会主義は終焉した。
関連項目
編集出典
編集参考文献
編集- Revolutionary Council (28 April 1962). “THE BURMESE WAY TO SOCIALISM”. Information Department for the Revolutionary Council. 22 August 2010閲覧。
- Burma---Growing Ever Darker Foreign Policy in Focus, 11 September 2007.
- 桐生稔著『ビルマ式社会主義―自立発展へのひとつの実験』教育社、1979年9月
- 大野徹「破綻した「ビルマ式社会主義」」アジア研究35巻3号、69-88頁、アジア政経学会 1989年。doi:10.11479/asianstudies.35.3_69
- 高橋昭雄「ビルマ式社会主義下の農地保有 : 下ビルマ一米作村の事例」アジア経済31巻3号、27-44頁、アジア経済研究所、1990年3月
- 紙谷貢「ビルマ式社会主義と農業の発展」農業綜合研究26巻4号、175-198頁、1972年10月
外部リンク
編集- NHK教養セミナー アジアの目・世界の目「“鎖国”から“開放”へ」-ビルマ式社会主義の現実-(1984年2月21日放送) - ウェイバックマシン(2019年4月15日アーカイブ分)