8888民主化運動
8888民主化運動(英語: 8888 Uprising, ビルマ語: ၈လေးလုံး または ရှစ်လေးလုံး)は、1988年にビルマ(現ミャンマー)でおこなわれた国民的な民主化要求運動である。1988年8月8日のゼネスト・デモが民主化運動の象徴として捉えられているため「8888民主化運動」の名があるが、学生を主体とする運動は1988年3月21日から継続して行われていた。
瑣末な事件がこのような民主化運動に発展した背景には、前年の1987年、国連から後発開発途上国(LLDC)に認定されたこと、9月に75、35、25チャット紙幣を廃止する廃貨令を発令、しかも廃止された紙幣と小額紙幣との交換を認めなかったため、財産を失う者が続出し、国民の不満が溜まっていたことがあった[1]。
運動の中、7月23日にネウィンの長期独裁政権は退陣したが、9月18日に国家法秩序回復評議会 (SLORC、後の国家平和発展評議会(SPDC)) による軍事クーデターが発生し、民主化運動は流血をともなって鎮圧された。この過程で、僧侶と一般人(主に学生)を含む数千人がミャンマー軍 (Tatmadaw) により殺された。
経過
編集3月事件
編集3月12日:ヤンゴン工科大学(当時はラングーン工科大学)近くの喫茶店サンダーウィン[2](偶然だがネウィンの最愛の娘サンダーウィンと同じ名前である)で、工科大生3人が持参したSai Htee Saingという、当時、”ミャンマーのボブ・ディラン”と呼ばれていたシャン族のフォーク歌手のカセットテープをかけるか否かで、先客の青年と喧嘩になり、学生の1人が先客の青年に椅子で頭を殴られた。この青年は警察に逮捕されたものの、地区人民評議会議長の息子だったためすぐに釈放された[3]。
3月13日:怒った学生3人は200人ほどの学生仲間を引き連れてその喫茶店に赴き、そこで付近住民と衝突。放火、乱闘の騒動となってロン・テイン(Lon Htein)と呼ばれる治安部隊が出動する事態となり、ロン・テインが学生たちに発砲して少なくとも2人が死亡、数十人の負傷者が出る事態となった[4]。犠牲者の1人はマウンフォンマウ(Maung Phone Maw)[5]というビルマ社会主義計画党(BSPP)青年組織・ランジン・ユースと工科大赤十字チームのリーダーの1人で、学業優秀な青年だったことから、学生たちに与えた衝撃は大きかった[6]。
3月14日:この事件に抗議して工科大学の有志たちが抗議のポスターとビラを制作して、ヤンゴンの他の大学でも配ったが、15日、600人以上の治安部隊が工科大学を襲撃して、少なくとも300~400人の学生を逮捕、大学を閉鎖した。
3月16日:ヤンゴン大学(当時はラングーン大学)の本キャンパスで学生たちによる数千人規模の抗議集会が開かれ、「ネウィンを火葬せよ」「軍政に終止符を」「全国で革命を開始する」などと書かれたビラが配られた[7]。その後、デモ隊はヤンゴン大学ライン・キャンパスとヤンゴン工科大学へ向けてプローム通りをデモ行進し始めたが、インヤー湖のほとり、通称「ホワイト・ブリッジ」のあたりでロン・テインと国軍の部隊と衝突。推定20~100人ほどの死者が出た。バーティル・リントナーの『Outrage : Burma's Struggle for Democracy」にはその様子が次のように描かれている。[8]
ロン・テインが学生たちに突撃した。棍棒が唸り、骨が折れる音がした。学生たちが地面に倒れ、血を流すと、うめき声や悲鳴が上がった。パニックに陥った学生たちは、階段を上って湖に逃げようとしたが、群れをなして倒された。ロン・テインの中には、群衆の中にいた少女たちを集中的に攻撃し、彼女たちの宝石や時計を奪う者もいた。他の警官たちは、逃げ惑う学生たちをインヤー湖の暗い水の中まで追いかけ、追いつくと、その頭を水中に押し込み、溺れるまで押さえつけた。トゥンウー(証言者)を含むより幸運なデモ参加者たちは、左手の住宅の壁をよじ登り、大虐殺を目撃して憤慨した市民たちが彼らを家にかくまった。約1時間後、暴力の乱痴気騒ぎは終わった。
インヤー湖には犠牲となった学生たちの遺体が浮かんでいたのだという[9]。なおこのホワイト・ブリッジはミャンマー語で「ダダピュー(白い橋)」と言うが、事件後は人々から「ダダニー(赤い橋)」と呼ばれるようになった[10]。同日、ヤンゴン大学メインキャンパスに国軍の部隊が侵入した。 3月17日:数千人がチャンドー(Kyandaw)火葬場の外に集まり、マウンフォンマウの葬儀に出席しようとしたが、彼の遺体は既に別の場所で密かに火葬されていたことが判明した。同日、政府は彼の死因を調査する調査委員会を設置すると発表したが、それはマウンフォンマウ1人だけで、他の犠牲者については触れなかった。ヤンゴン大学のメインキャンパスで集会で開かれ、2000人ほどの学生が集まり、ヤンゴン大学学生連合が結成された。しかしこの集会に国軍の部隊が突入し、催涙弾を発射。約1,000人の学生が逮捕され、軍用トラックに詰め込まれて、インセイン刑務所に送られた。この際、催涙ガスを吸入した後の換気不良が原因で41人が窒息死したが、この事実は、7月19日、国営放送が事件を報道するまで伏せられていた[11][12]。
「私たちが閉じ込められたバンは20人乗りだったと思いますが、バンには100人近く乗っていました。ものすごく暑くて、酸素不足でみんなめまいを催していました。催涙弾や警棒で殴られた後遺症に苦しんでいる人も何人かいました。私たちのバンには数人の少女が乗っていたので、彼女たちをバンの前に立たせました。そこには小さな開口部があったので、呼吸ができました。私は何も見えませんでしたが、道中の曲がりくねった道や刑務所に着くまでの時間から判断すると、バンは人々の注目を集めないように遠回りしていたに違いないと思います」
この事件を機に、学生組織の組織化が進んだが、それは皮肉にも国軍やBSPPを真似たもので、チラシやポスターの作成と広報を担う情報部、資金、食料・水を集める社会福祉部、ロン・テインの動向に関する情報を収集する諜報部などの部門が設けられた。経験がなかった学生たちは、1970年代半ばの反政府デモに参加した年上の元学生に連絡を取り、アドバイスを求めた。ただこの際、情報部はグループ内の政府の密告者を特定しようとしようとして、学生寮内に「刑務所」を設置し、密告者と疑われる者を尋問、3人の学生が有罪判決を受け、殺害されたのだという[13]。
3月18日:政府が設置した事件調査委員会が、1ヶ月以内に報告書を提出するとした方針に抗議するために、スレー・パゴダに1万人以上の学生が集まり、集会を開いた。彼らは信号機を破壊し、政府所有の車両や政府運営の協同組合人民商店に放火したが、市民の財産には手を触れなかった。警官は逃げ出し、またしても重武装したロン・テインがやって来て、警棒で突撃し、空中に向かって威嚇射撃を行ったが、今回ばかりは多勢に無勢だった。暴動はヤンゴン各地に広がり、あちこちから黒煙が上がった。ついには国軍の精鋭部隊である第22、第66、第77軽歩兵師団が投入され、数千人の抗議者が逮捕された。ちょうど金曜日で、スーレー・パゴダの西にあるモスクでムスリムの礼拝が行われており、無関係な大量のムスリムの人々が逮捕された。夜には事態は終息したが、この日の死傷者数は不明。後述するアウンジーは、死者のほとんどはムスリムだったと書簡の中で述べている。BBSビルの裏にある火葬場の煙突からは、犠牲者の遺体が焼かれる煙が絶え間なく上がっていたのだという。のちにこの日は「血の金曜日」として知られるようになり、ロン・テインの指揮官セインルインは「ラングーンの虐殺者」と呼ばれるようになった。大学と学校が閉鎖された。
3月27日:国軍記念日のパレードの演説において、国軍総司令官のソーマウンが「BSPPの指導の下で建設的な仕事が遂行されている一方で、地上と地下の両方で破壊分子があらゆる種類の破壊行為に訴え、人々の進歩を妨げている」と述べる。
アウンジー書簡
編集5月9日:政府の調査委員会は、3月事件で学生3人が死亡、625人が逮捕され、141人が依然として拘留中であると発表した。
5月30日:学校と大学が再開されたが、出席率は10%ほどだった。この頃から3月事件の際に逮捕されてインセイン刑務所に収監された学生たちが、釈放され始めた。彼らの口からは拷問、暴行、電気ショック療法の話が語られ、中には陸軍少佐の娘がロン・テインたちに強姦されたという話もあった。
ミャンマーの軍情報局の拷問方法として有名なものには「バイク」と「ヘリコプター」がある。
バイクとは、鋭い小石の上にひざまづかされ、絶えず殴打されるという拷問で、1970年代半ばにこの拷問を受けた者によると、それは次のようなものだそうである。
軍の諜報員が私に「バイクに乗れ」と命じた。私がバイクなど見えないと言うと、彼は私を殴り、コンクリートの床の空いている場所を指差して「あそこにバイクがある、見えないのか」と叫んだ。それから私は半身かがみになってバイクに乗っているふりをし、エンジン音などを立てなければならなかった。時折、警官は竹の棒で私を叩き、「赤信号で止まらなかったのか! 一体どうしたんだ? 法律を守っていないじゃないか!」などと叫んだ。気が狂ったかと思うほど、そんな状態が続いた。
ヘリコプターとは、両手を広げて回転させることによってめまいさせることを目的としており、バランスを崩すと、殴打され、再び回転を始めるよう命じらるという拷問方法だった[14]。
そして5月中旬頃から、元国軍ナンバー2で、1963年にネウィンの経済政策を批判して失脚した後、喫茶店の店主をやっていたアウンジー元准将が、5月9日にネウィン宛てに書いたとされる書簡[15]がヤンゴンに出回り始めた。内容は、ネウィンを直接批判することは避けつつ、第2次世界大戦以降のビルマの政治史、その中での自身の役割、ネウィンに対する自身の立場の概説、経済政策批判だった。アウンジーは前年7月にもネウィンに経済政策の変更を求める書簡を出しており、因果関係は不明だが、実際、ネウィンが経済失政を認める演説をしたという経緯があった。この書簡はコピーされ、ヤンゴンのみならず全国に出回った。有力者が学生の反政府活動を擁護したことにより、3月事件で意気消沈していた学生たちは鼓舞された[16][17]。なおこの書簡の中で、アウンジーは、宮澤喜一大蔵大臣(当時)の意を受けた2人の日本人の密使に会い、ネウィン体制に変更のない限り、日本の対ミャンマー支援を縮小すると伝えられたと書いているが[18]、真偽は不明である。アウンジーは6月8日にも、今度は3月事件の詳細を明らかにするネウィン宛ての書簡を書き、事件の詳細が広く人口に膾炙することとなった[19]。
6月事件
編集6月13日:3月事件で殺害された人々の追悼式が計画されていたが、実現しなかった。
6月15日:ヤンゴン大学メインキャンパスでデモと集会が再開された。椅子とテーブルで作られた演壇に、ハンカチで顔を隠した演説者が次々と登壇し、政府の残虐行為を非難したり、まだ拘束されている人々の釈放を要求するスピーチを行った。集会には学生だけではなく、僧侶、労働者、十代の若者たちも参加した[20]。
6月20日:ヤンゴン大学の4つのキャンパスがすべて閉鎖された。
6月21日:ヤンゴン大学閉鎖に抗議して、数千人の学生がアウンサン将軍の肖像画を掲げながら、ヤンゴン大学医学部のプローム通り・キャンパスからヤンゴン中心部に向かってシュプレヒコールを上げながらデモ行進した。しかし、ハンタワディ(Hanthawaddy)交差点でロン・テインと衝突し、ロン・テインはデモ隊に向かって催涙ガスとライフルを発射した。デモ隊もジングリー(jinglee)や投石で反撃。ジングリーとは、自転車のスポークや傘のスポークを削って尖らせ、先端に除草剤や牛糞を塗って殺傷力を高め、鶏の羽を弓にして飛ばす自家製武器で、デモ隊はこれを使ってロン・テインや警察官を何人か殺害した。殺害された彼らの遺体を載せたトラックが群衆に止められて放火され、見物していた人々は拍手喝采を送った。
両者の衝突は午後遅くに収まり、6月23日の『労働人民日報』によると、公式の死者数は「人民警察隊員6名、騒乱と暴力を引き起こした者3名」だったが、外交筋の推定では、ロン・テインと警察官合わせて20人、民間人少なくとも80人、おそらく100人以上が死亡したとされる。ラングーンのすべての大学と研究所は無期限に閉鎖され、首都では日没から夜明けまでの外出禁止令が敷かれた。当局は6月21日から8月19日までの60日間、デモと集会を禁止し、ヤンゴンでは午後6時から午前6時までの夜間外出禁止令が出された。ヤンゴン大学医学部と歯科大学が閉鎖され、翌日、ラングーン工科大学も閉鎖された。ヤンゴンでは、外出時間中の経済活動も禁止されたため物価が高騰した。禁止令に違反した者は射殺された(禁止令は7月1日に午後8時から午前4時までに短縮され、7月9日に解除された)[21]。
6月23日:集会禁止に反発して学生たちは、シュエダゴン・パゴダにストライキ・センターを設置した。ヤンゴン北のバゴーでも反政府デモがあり、治安部隊により少なくとも70人が殺害された。モーラミャインとピィ(プローム)でも反政府デモが報告され、デモが地方都市へ、学生以外の階層の人々へ波及する動きを見せてきた[22]。
反ムスリム暴動
編集7月7日:3月事件で逮捕・拘留されていた者、240人が釈放される。当初、政府は拘留されているのは141人だと述べていたが、240人中139人が学生で、残りは市民だとあらためて発表した。また当初、反政府デモが報告されていなかったモーラミャインで73人、バゴーで50人、ピィで27人が釈放されたとの発表もあり、期せずしてデモが全国に広がっていることを人々が知ることとなった。
7月11日:シャン州タウンジーで、ムスリムが経営する喫茶店の店主の息子が、托鉢僧に輪ゴムを飛ばしたことをきっかけに、仏教徒とムスリムとの間で衝突が発生。怒り狂った仏教徒の住民が件の喫茶店を焼き払い、他にもムスリムが経営する店も数軒破壊された。その後、件の托鉢僧が失踪を遂げ、ムスリムに誘拐され殺害されたという噂が流れ、大きな暴動に発展。13日、治安部隊が出動して暴徒に対してライフルを発砲し、2人が死亡、約10人が負傷した。また逆に暴徒がパチンコで発射した石が、シャン州人民警察長官の目に命中し、翌日彼は死亡した。暴動はその後、3日間続いたのだという。
7月16日:ピィで酔っ払ったムスリムの若者が、喫茶店の外で若い仏教徒の少女を侮辱したことをきっかけに、仏教徒とムスリムとの間で乱闘が発生。ムスリムの家や店が襲撃され、焼き払われた。暴動はピィから東へ20km離れた、ネウィンの生まれ故郷・パウンデールにまで及んだ。
この時期、仏教徒とムスリムとの間で衝突が頻発したことについては、人々の不満を逸らすために政府が反ムスリム感情を煽ったという説がある。6月、ヤンゴン大学の各キャンパスでデモや集会が行われていた時、反政府的なビラに混じって、「ビルマ民族主義的仏教徒」を名乗るグループによる反ムスリム感情を煽るビラが配られていた。その内容は、ムスリムの男性が仏教徒の女性を誘惑しようとしていて、仏教徒女性を妊娠させれば1,000 ks、大卒の仏教徒の女性を妊娠させれば2,000ks、国軍将校の娘を妊娠させれば5万ksの手当を毎月支払うという「ムスリム連盟」による秘密文書が発見されたとして、ムスリムが経営する店のボイコットと国外追放を訴えるものだった。タウンジーやピィでこのようなビラが配られたという証拠はなかったが、過去、軍政は、人々の社会的・経済的不満を逸らすために、1967年、ヤンゴンで反中感情を煽って人々に中国系住民に対する暴動を起こさせたり、1984年6月と7月、同じ理由で、モーラミャイン、モッタマ、およびエーヤワディー・デルタ地帯のいくつかの町で反ムスリム感情を煽って、人々にムスリムに対する暴動を起こさせたりした疑惑が持たれており、この度もムスリムが体よくスケープゴートにされたと考える人が多くいた[23]。
7月19日:国営ラジオ放送が、3月17日、ヤンゴン大学でデモを鎮圧した際、軍用トラックに詰め込まれた学生41人が窒息死したという事実が報道される。そしてこの件に関して、ミンガウン内務・宗教大臣とヤンゴン人民警察総局長テインアウンの「辞任が許可され」、国家警察長官ペチーは副局長に降格され、機動隊を率いていたフラニ元少佐の昇進が2年間延期された。軍政なりの民心懐柔策だったと言われている[24]。そして同日、母の看病のために一時帰国していたアウンサンスーチーが、父親のアウンサンの命日である殉教者の日の式典に出席した旨を国営新聞が伝え、国民がその存在を知ることとなった。
ネウィン辞任
編集7月23日:ヤンゴンのサヤー・サン・ホールでBSPP臨時党大会が開催される。BSPPの党大会は5年毎に開かれ、次は1989年の予定だったが、前倒しされた格好だった。そして演壇に立ったネウィンは、
3月と6月の流血事件は、事件に直接関与した人々、あるいは事件を支援した人々の政府とそれを率いる党への信頼の欠如を示していると私は考えております。しかし信頼の欠如を示す人々を支持しているのは多数派なのか少数派なのかを明らかにする必要があります。複数政党制か単一政党制かという問いに対する答えは国民投票で得られると私たちは信じており、現在の議会に国民投票の承認を求めます…国民が複数政党制を選択するのであれば、新しい議会のための選挙を実施しなければなりません。
と、突然、複数政党制の導入を問う国民投票の実施を提案し、さらに、
3月と6月に起きた悲しい出来事について、たとえ間接的であっても私に責任が完全にないわけではないと考えており、また年齢も高齢であるため、党員の皆様に、私が党首および党員としての職務を放棄することをお許しいただきたいと思います。
と述べ、自身のBSPP議長辞任と、BSPP副議長兼大統領のサンユ、BSPP書記長のエーコー、共同書記長のセインルイン、国防大臣チョーティン、財務大臣のトゥンティンの辞任を申し出たのである。26年間BSPPの一党独裁、ネウィンの独裁が続いてきたミャンマーにおいては、まさに青天の霹靂であり、国営ラジオ放送で演説を聞いていた国民は驚愕した。さらにネウィンは演説を続け、アウンジー書簡の内容を事実誤認と非難した挙げ句、1962年のヤンゴン大学の学生による反クーデターデモの際、ヤンゴン大学の学生会館を爆破したのは当のアウンジーだと述べた。そして最後に次のようなことを述べて、国民に警告を発した。
国家秩序を維持するために、今後、暴徒による騒乱が起きれば、国軍は命中するように発泡する。空に向けて威嚇射撃するようなことはしない。そのことを国民全員に知ってもらいたい。
ネウィンは午前中退席して、その後、党大会には姿を見せなかった。党大会は昼休みを挟んで午後に再開され、BSPP書記長のエーコーが、国営企業の非合理性・非効率性を指摘して、国営独占は石油、天然ガス、真珠、翡翠、宝石に限定して、その他の産業は民間企業や外国企業にも開放すると発表した。これも「ビルマ式社会主義」からの大きな転換だった。
7月24日:大会2日目。登壇したカチン州、カヤー州、チン州、タニンダーリ地方域、マグウェ地方域の代表が複数政党制の導入に反対の意思を表明した一方、マンダレー地方域、バゴー地方域の代表は複数政党制の導入に賛成した。
7月25日: 大会3日目。結局、ネウィンとサンユは「辞任を許可された」が、他のエイコー、セインルイン、チョーティン、トゥンティンは許可されず、セインルインがBSPP新議長に選出され、エイコー書記は留任、チョーティンが新副書記に選出された。また複数政党制の導入は否決された。ネウィンの辞任劇には自作自演説、乱心説など様々な憶測を呼んだが、いずれにせよネウィンの口から複数政党制の言葉が出たことにより、反政府運動の焦点が民主主義に絞られるきっかけとなったと言われている[25][26]。
ある西側諸国の外交官は後年次のように語っている。
それまで学生運動と、それに対する大衆の同情的反応はまったく焦点が定まっていなかった。それは本質的に反政府運動で、残虐行為に対する抗議、そして愚かな政策、紙幣廃止、学生の絶望、将来の展望の無さに対する不満の表明だったが、焦点が定まっていなかった。しかしネウィンは、複数党制を求めることで無意識のうちに焦点を定め、そこから学生の叫びは民主主義へと移った[27]。
7月27日:今度は臨時人民議会が開催され、セインルインが大統領に、チョーティンが国家評議会書記に、トゥンティンが首相に、マウンマウン博士が人民検察評議会議長に選出された。既述したとおり、セインルインは3月事件、6月事件弾圧の責任者で、。ネウィンが指揮する第4ビルマ・ライフル部隊出身で、1950年、カレン族の独立運動の英雄・ソーバウジーを殺害した功績によりネウィンの絶大な信頼を得た。1962年のクーデター直後、ヤンゴン大学で反クーデターデモが起きた際は、その弾圧の指揮を取り、国民の間では、無教養な冷酷な人物として知られ、すこぶる評判が悪い人物だった。あだ名は”肉屋”[28]。彼が後継者に任命されたことは、ネウィンの引退は見せかけで、裏でセインルインを操っているものと、少なくとも国民は受け止めた
7月29日:アウンジーと、当時ミャンマー1のジャーナリストとして名高かったAP通信記者セインウィン、その他退役軍人9名がその夜遅く逮捕された。
8888
編集8月1日:全ビルマ学生連合(All-Burma Student's Union/通称バ・カ・タ)と名乗る組織が、1988年8月8日、8が4つ並ぶ吉祥の日に全国ゼネストを行うよう呼びかけるビラを街中で配り始めた。ビラの署名にはのちに高名な民主化運動家となるミンコーナインの名前があった。ミンコーナインとはミャンマー語で「王を倒す」という意味である。学生たちは突然喫茶店やバス停に現れ、ビラを配り、すぐに人混みの中に消え去っていった。またミャンマーでは、1938年という年は、ミャンマー中部・マグウェの油田労働者によるストライキをきっかけに、ヤンゴンで学生・活動家による大規模な反英植民地運動が巻き起こり、のちの独立運動の発端となった年ということで「1300年革命」と言われていたが、1988年は、その1300年革命50周年に当たる年という認識が人々の間に広まっていった[29]。
8月3日:ヤンゴンでこれまでで最大の1万人規模のデモが行われる。シュエダゴン・パゴダ周辺が封鎖されていたので、デモ隊はスーレー・パゴダ周辺に集まった。デモ隊は物価高を揶揄し、「セインルインの首をへし折れ!」「セインルインの首を斬れ!」と過激なシュプレヒコールを上げていたが、見守っていた兵士たちは妨害しなかった。窓やバルコニーからデモ隊を見物していた人々は拍手喝采を送り、路上の売り子たちはお菓子やスナックや水をデモ参加者に無料で配り、自発的にデモに参加する人もいた。お祭りのような雰囲気だった。
その夜、ヤンゴンに戒厳令が敷かれたが、学生たちはひるまずにデモを続けた。またデモは全国各地に広がり、バゴーやマンダレーでは逮捕者や国軍の発砲による死者や負傷者を出していた(ヤンゴンでは発砲はなかった)。一方で、8888に参加するために地方から多くの人々が、車、列車、バス、トラックでヤンゴンに押し寄せた。移動中、彼らはスローガンを叫び、1962年のクーデター前のビルマ連邦の古い国旗を振り回した。ヤンゴンに到着すると、大学、ラングーン総合病院、カンドージー湖のほとりにあるボージョー・アウンサン公園にキャンプを張った[30]。
8月8日:予告通り、ヤンゴンで大規模なゼネストとデモが行われた。1988年8月8日8時8分きっかりに、ヤンゴン港の港湾労働者がストライキを実施したのをきっかけに、ヤンゴン各地で結成されたデモ隊は、スーレー・パゴダ近くのヤンゴン市庁舎とマハバンドゥーラ公園を目指して行進し始めた。デモ隊は老若男女、ビルマ族、インド人、中国人、その他ありとあらゆるミャンマーの少数民族の人々が国旗、横断幕、国民的英雄アウンサンの肖像画を掲げ、僧侶たちは托鉢を逆さまにして、国軍指導者たちからの布施を拒否する意思表示をしながら、行進に加わっていた。1時間も経たないうちに、市庁舎周辺は5万人とも[31]20万人とも[32]言われる多くの人々でぎっしり埋まり、数万人の人々でぎっしり埋まり、周囲の家のバルコニーは見物人でいっぱいになり、屋根の上にまで登る人もいたのだという。そして、市庁舎の前には外即席の演壇が10つほど設置され、演説者が次々と登壇して、「民主主義が欲しい!」「 BSPP政府を倒せ!」 「セインルインを倒せ! 」「アウンジーと他の政治犯を釈放せよ!」政府を非難するアジ演説を行い、その度に群衆は大声で呼応した。その様子を見守っていた兵士たちは、雰囲気に飲まれ、圧倒されていた様子だったのだという[33]。
大規模なデモはヤンゴンだけではなく、北部のマンダレー、ザガイン、シュウェボ、エーヤワディー・デルタ地帯のバセイン、中央平野部のバゴー、タウングー、ピンマナ、ミンブー、エーヤワディー川沿いの石油の町・イェナンジャウン、チャウク、南東部のモーラミャイン、メルギー、ダウェイ、シャン州のタウンジー、そして北はカチン州の州都ミッチーナーまで国内の主要都市で行われた。
しかしヤンゴンでは、午後5時半頃、ヤンゴン地方司令部の司令官が「解散しなければ発砲する」と警告を発し、それでも人々が解散しなかったことから、午後11時半頃、兵士を満載したトラックとマシンガンを正面に向けたブレン・キャリアが市庁舎前にやって来て、人々をピストルやライフル、マシンガンで撃ち始めた。
何人かの兵士がトラックから降りて群衆にライフルを向け、他の兵士はトラックに留まりました。彼らは群衆の最も密集した部分に向けて自動小銃で発砲しました。私たちは命からがら逃げました。私の前にいた2人の若者は地面に倒れ、即死しました。隣にいた友人は足を撃たれ、私は彼を助けました。銃弾が空中を飛び交う中、人々は四方八方に逃げました。私たちは無事に家に着きましたが、友人は病院に行くのを怖がり、自宅でできる限りの手当をしました。幸運にも彼は生き延びました[34]。
8月9日:ザガインで、約1万のデモ隊が警察署を虜囲み、拘留されている学生の釈放を要求していたところ、警察と国軍の部隊がデモ隊に発砲。目撃者によれば、その場で200〜300人が死亡した。発砲を指示したのは、強烈な反共思想の持ち主で有名な、ザガイン地区人民評議会議長のトゥラ・チョーズワという人物だった。ヤンゴンでは8日以降も小規模ながらデモと国軍の発砲が続いていたが、北オッカラパ郡区では、住民が軍情報局の捜査官をバイクから振り落とし、リンチして殺害した挙げ句、遺体とバイクに火を点けた[35]。
8月10日:ヤンゴンの北オッカラパ郡区で、数百人の暴徒が地元の警察署を占拠し放火。拘束した警察官4人をリンチした挙げ句、その首を刀で次々と切り落とし、取り囲んだ人々は歓声と拍手を上げた。同日、多くのデモ参加者の遺体や負傷者が運びこまれたヤンゴン総合病院に国軍が発砲。女性看護師2人と男性看護師1人が重傷を負い、他2人が軽傷を負った。あるデモ参加者がこの事件が大きな分岐点だったと語る。
病院での銃撃は大きな転換点でした。国民と国軍の間には完全な亀裂が生まれ、軍務に就くことが名誉だった時代に戻ることは不可能でした。私たちは夜通し残業し、寝られる場所と時間を選びました。誰もが動揺し、公然と泣く人もいました。私たちには、私たちに加わってくれると信じていた兵士たちが、なぜ自国民にこんなことをするのか理解できませんでした[36]。
8月12日:国営ラジオ放送は、セインルインの「党議長職と大統領職からの辞任が許可された」と発表。わずか18日間の就任期間だった。また国営ラジオ放送は、9日から11日までにヤンゴンで死者53人、負傷者196人、逮捕者1564人が出たと発表したが、推定ではヤンゴンだけで1000人、全国で数千人の死者が出たと言われている。セインルイン辞任のニュースを聞いた時、人々は通りで踊り狂い、鍋やフライパンを叩いて祝ったのだという[37]。
スーチー登場
編集8月19日、法律家で穏健な人物として定評があり、がしかしネウィンには忠実なマウンマウンが大統領となる[38]。マウンマウンは治安部隊に発砲を控えるよう厳命していたため、彼の議長就任後、デモは全国各地で広がり、学生だけではなく、労働者、公務員、僧侶、経営者、医者、弁護士、芸術家、ムスリムあらゆる人々が参加した。また学生運動のシンボル・赤い孔雀の旗、シュプレヒコール、プラカードとデモの体裁も整っていった。プラカードには「軍政打倒」「複数政党制実現」などと書かれていた[39]。24日にはヤンゴンの戒厳令が解除され、マウンマウンは9月12日臨時党大会を開き、あらためて国民投票の是否について協議するという声明を発表した。
デモを主導したのは学生たちだったが、彼らは自分たちには政権担当能力がないことを重々承知しており、自分たちのリーダー探しに苦労していた。当初はアウンサンの長男で、アメリカ在住のアウンサンウーに期待がかけられたが、彼は政治には興味がなかった[40]。25日には釈放されたアウンジーがヤンゴン市内のサッカー場で演説をして、多くの人が集まったが、彼はネウィンに忠実な元軍人で、やはりリーダーには物足りなかった。元国防大臣で投獄された経験があり、当時は弁護士をしていたティンウーも公衆を前にして演説し、好評を博したが、彼もまた元軍人だった[41]。インドで瞑想生活を送っていたウー・ヌ元首相もインドから帰国してひさびさに表舞台に出、民主平和協会を結成を発表して元同僚などから支持を得たが、いかんせん高齢だった。
ということで独立の英雄・アウンサン将軍の娘で、教養があり、容姿端麗なスーチーに白羽の矢が立ち、26日、シュエダゴン・パゴダで彼女の演説会が開かれた。聴衆は約30万人。内容は多党制への移行または総選挙実施のための暫定政権樹立を求め、国軍に国民の側に付くことを訴え、国民には平和的手段で戦うことを求めるものだった。後年歴史的演説と評価されているが、演説は原稿を淡々と読み上げるだけで迫力を欠き、スピーカーの出力が弱く、ほとんどの人々が聞き取れなかったのだという[42]。
しかし、海外のメディアはスーチーに注目し、彼女も彼らのインタビューに堪能な英語で当意即妙に応じ、国内だけではなく海外からもミャンマー民主化運動の象徴的存在と目されていった。1986年にエドゥサ革命を経て、大統領に就任したフィリピンのコラソン・アキノと姿をだぶらせる声も多かった[43]。9月初旬にミャンマーを訪問した、アメリカの下院外交委員会・アジア太平洋小委員会委員長スティーブン・J・ソラーズ議員は、アメリカは民主化運動を全面支援し、現政権への支援を見直すべきと主張して、民主化運動を後押しした[44]。
停滞と過激化
編集しかし長引くデモとストで国民生活は麻痺して経済は悪化。政府系商店の略奪放火も横行。また2021年クーデターと時と同じく国軍が大量に囚人を釈放したことにより治安も悪化し、各地区はバリケードを築いてナタや刀で武装した自警団を結成した。警察官やスパイ疑惑をかけられた人々の斬首も相次ぎ、ガリ版刷りのアングラ新聞にその写真が度々掲載された[45]。この自警団に感化されてデモ隊も徐々に武装化していき、手槍、日本刀、ジングリーを使って治安部隊を威嚇した。ヤンゴンやマンダレーでは「武装決死隊」が結成され、本格的に武装闘争を開始する動きもあった[46]。また当時国防省情報局(DDSI)局長だったキンニュンによれば、ビルマ共産党(CPB)がこの混乱を奇貨として政権掌握を目論見、工作員をデモ隊に紛れこませたり、アメリカの戦艦4隻が領海侵犯してきたりしたのだという[47]。
9月9日、ウー・ヌが暫定政権の樹立を宣言。しかしその内容は①自分は1962年に非合法なクーデターで政権を奪われたが、1947年憲法にもとづき今でも自分は合法的な首相である②10月9日に選挙を行うが、投票用紙や投票箱を用意できないので大集会における拍手で議決したい③地方で選挙ができないのは大変遺憾というもので、失笑を買っただけに終わり、結局、ウー・ヌは3日後に撤回に追いこまれた。
翌9月10日、マウンマウンは国民投票を行わずに複数政党制の総選挙を3ヶ月以内に行うと発表した。セインルイン辞任(8月12日)、国民投票の実施(8月14日)に次ぐ大幅な譲歩で、暫定政権樹立はBSPP支配の死を意味するので、これ以上はない政権の譲歩だった。
9月13日、デモを主導する学生たちが、スーチー、ウー・ヌ、アウンジー、ティンウーの4人をヤンゴン市内の医科大学の教室に集めて、暫定政権樹立を求める会合を開いた。翌日、ウー・ヌが同じ教室に現れ自分の所信を述べたが、昔話と自慢話に終始し、学生たちは大いに失望した[48][49]。他の3人も返答期限の15日に「平行的に暫定政権を樹立するのは好ましくない」と返答を送った。
クーデター
編集9月17日、貿易省前で武装化したデモ隊が国軍兵士24人を拘束して、その武器を奪うという事件が発生した。これが決定打となり、翌9月18日、国営ラジオが「国軍が全権力を掌握した」と発表。国家秩序回復評議会(SLORC)が設置され、国軍総司令官のソウマウンが議長に就任し、クーデターの目的は①治安と法秩序の維持②運輸通信の安定③国民生活の便宜④複数政党制の下での総選挙実施と発表された。キンニュンによれば、事態を収拾できなくなったので、ソウマウンとキンニュンがネウィンに相談したところ、クーデターの決行を促されたのだという[47]。クーデター後3日間、各地で暴動が発生したが、国軍はこれを徹底的に弾圧。正確な数は不明だが全国で多数の死傷者が出た。なおこの時のヤンゴンでの弾圧の模様は1988年11月21日にNHKで放映された『ビルマ・戒厳令下の記録~ラングーン・カメラ日誌[50]』に収録されている。
10月に入るとストライキをしていた続々と職場復帰し始め、事態は終息に向かった。当時ヤンゴンに滞在していた外交官の藤田昌宏氏は、①暫定政権の非現実性②リーダーシップの不統一が民主化運動失敗の要因であったと述べている[51]。ミャンマー農村経済を専門とする高橋昭雄は①当初から国軍の動向が鍵であったこと②経済政策が語られていなかったこと③民主化運動のリーダーたちが都市部出身の比較的富裕な人々ばかりで、当時人口の3分の2を占めていた農民、農村政策が語られていなかったこと(下層軍人のほとんどが貧農出身)を問題点に挙げている[52]。
ビルマ共産党の影響
編集1989年8月5日、キンニュンは記者会見を開いて、8888民主化運動の際のCPBの活動について、次のように述べている[53]。のちにNLD関係者がキンニュンの指摘はある程度事実であったことを認めている[54]。
- 8888民主化運動の際の略奪・放火・首切り等の反政府活動はCPBの工作であり、NLDがCPBの影響を受けているたしかな証拠がある。
- CPBは権力奪取の手段としてスーチーを利用してきたが、8888民主化運動以降、スーチーを指導者に仕立て利用してきた。スーチーは無自覚のうちにCPBに誘導された。CPBは7月19日の蜂起の計画が失敗すると、8月8日に再度計画を立てた。
- スーチーはCPBはの戦術を熟知していなかったため、利用された。元CPB党員に対する油断があった。
- NLDにはCPBの工作員が浸透し、スーチーに政府に対する対決路線を取らせた。
- スーチーの周囲には共産主義者が多く集まっていた。
- スーチーはカレン民族同盟(KNU)議長ボーミャと全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)からの支持を取りつけていた。外国公館との接触もあった。CPB中央委員会委員チョーゾー(Kyaw Zaw)からの書簡など多数の証拠物件がスーチーの自宅から発見された。
- NLD内部では、印刷出版業者登録法、殉難者の日式典をめぐって内部対立が生じ、基本的政治方針を出せないまま共産主義的方法にしたがって対決路線を強めていた。NLDに浸透していたCPBの工作員は、元CPB議長タキン・ジン(Thakin Zin)の妻チーチー(Kyi Kyi)、元新聞社主筆ウィンティン(Win Tin)、弁護士ミンミン(Myint Myint)などである。
余波
編集民主化運動を担った若者たちの中には、都市部に残って許される範囲内で政治活動を続ける者もいれば、ミャンマー・タイ国境地帯に逃れ、反政府武力闘争をすべくカレン民族解放軍(KNLA)などの少数民族武装勢力の下で軍事訓練を受ける者もいた。1989年9月、その若者たちが結集して全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)を結成し、同年、少数民族武装勢力とビルマ族民主派の連帯組織・ビルマ民主同盟(DAB)にも参加した[55]。ただ当時、カレン民族解放軍に参加していて件の学生たちに訓練を施した西山孝純氏は、その著書の中で、彼らのほとんどが運動経験がないため厳しい訓練に付いていけず、またエリート意識が強すぎて少数民族武装勢力の人々を見下し、被害者意識が強すぎ、自己アピールが強すぎたと苦言を呈している[56]。結局、若者たちの多くは厳しい訓練、粗食、マラリアなどに耐えきれず、政府の呼びかけに応じて投降、政府がタイへ飛ばした飛行機に乗って故郷に戻っていった。1998年12月までに3320人の学生たちが帰還したのだという[57]。
8888民主化運動の後、他の若者たちとともにジャングルに逃れてゲリラに加わり、その後、ケンブリッジ大学で英文学の学生になったパスカル・クー・テュエが著した『緑の幽霊の国から』にある、若者たちと喧々諤々の議論を交わしている際に「自分たちは軍事政権の連中と同じではないか」と気づいた際の記述が示唆に富む。
ミャンマーでの生活も教育も―そしてカトリックという宗教でさえも―権威への服従と従順の美徳を教え、人々から自分で考える自由を奪ってゆく。そのような生活を送って来た自分たちは、反乱に身を投じて、自由を手に入れても、自分で考えることができず、まさに軍事政権と同じように、スローガンを叫び、そうすることによってスローガンがすぐにでも実現できると信じるのだ。自分で作ったプロパガンダが、自分の中で現実になる。これこそは、「幻影の政治(Politics of Illusion)」とでも呼べるもので、自分たち反乱学生も同じ自己欺瞞に満ちた幻影の政治をしている。ただ、軍事政権側か、反政府かというのが違うだけだ[58]。
日本政府の対応
編集3月事件の直後の4月19日から1週間、当時の副首相・トゥラ・ウー・トゥンティンが来日。日本政府にミャンマー経済の窮状を訴え、配慮を求めた。1987年~1988年のミャンマーの円借款の返済が滞っていたため、既に新規の経済協力は停止していた。日本政府内でも長年の経済支援のわりには成果が上がっていないと問題になっていたようだ。この際はまだミャンマー政府の弾圧は政治問題になっていなかったが、日本政府は、ミャンマーの日本に対する債務のうち、5億6000万$分については無償資金の供与で相殺することにしたものの、その他の経済協力については、ミャンマーの経済改革の進展と国際的支援体制を考慮にいれて検討すると約束するに留まった[59]。
しかしミャンマー情勢の緊迫を受けて、日本政府はミャンマー政府への経済協力を事実上凍結。が、1989年2月17日、日本政府は他国に先駆けて国家秩序回復評議会(SLORC)を承認し、進行中の経済支援の再開に踏み切った。背景には2月24日に予定されていた大喪の礼に、長年の友好国であるミャンマーの代表を招かないわけにも行かず、両国の国交正常化を早期に図ったという事情があったと言われている。なお軍政の承認を後押ししたのは、当時、日本ビルマ協会の会長を務めていた大鷹淑子だった。この日本政府の決定は、ミャンマーの民主派や一部西側諸国から非難を浴びた[60]。
関連項目
編集出典
編集- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 11-26.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 21.
- ^ Bertil Lintner 1995, 112.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 200.
- ^ “March 1988: A Month of Revolt”. The Irrawaddy. 2024年8月16日閲覧。
- ^ Bertil Lintner 1995, 132.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 201.
- ^ Bertil Lintner 1995, 195.
- ^ “When a White Bridge Ran Red With Students’ Blood”. The Irrawaddy. 2024年8月16日閲覧。
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 47.
- ^ Bertil Lintner 1995, 232,251.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 13.
- ^ Bertil Lintner 1995, 251,269.
- ^ Lintenr 2024, pp. 13–15.
- ^ “Aung Gyi's letters to Ne Win” (英語). New Mandala (2011年6月17日). 2024年8月16日閲覧。
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 40-46.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 202.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 46.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1593.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1617.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1672.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1708.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1754.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1816.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 72-80.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 210-218.
- ^ Bertil Lintner 1995, 1975.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 81-84.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2017.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2039.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 224.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 90.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2088.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2141.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2160.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2286.
- ^ Bertil Lintner 1995, 2320.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 102-106.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 250.
- ^ “【連載】親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター 第4回「なぜアウン・サン・スー・チー女史は国民に支持されるのか」 – ミャンマー最新ニュース・情報誌-MYANMAR JAPON” (英語). 2024年8月19日閲覧。
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 283-28.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 260.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 112.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 118.
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 284.
- ^ 桐生稔, 髙橋昭雄『「ビルマ式社会主義」体制の崩壊 : 1988年のビルマ』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1989年版〉、1989年、479-512頁。doi:10.20561/00039007。hdl:2344/00002088。ISBN 9784258010899 。「Ja/3/Aj4/89」
- ^ a b キンニュン『私の人生にふりかかった様々な出来事―ミャンマーの政治家 キン・ニュンの軌跡〈上巻〉』三恵社、2020年3月26日、50-66頁。
- ^ 伊野憲治『ミャンマー民主化運動』めこん、2018年4月、90頁。
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 307,308.
- ^ “放送ライブラリ公式ページ”. 放送ライブラリ公式ページ. 2024年8月17日閲覧。
- ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 326-332.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 163,164.
- ^ 桐生, 稔、高橋, 昭雄「民主化体制への第一歩 : 1989年のミャンマー」『アジア動向年報 1990年版』1990年、[487]–516。
- ^ “Secrets of Commune 4828”. The Irrawaddy. 2024年10月28日閲覧。
- ^ 敬, 根本「ビルマ民主化闘争における暴力と非暴力 : アウンサンスーチーの非暴力主義と在タイ活動家たちの理解」『年報政治学』第60巻第2号、日本政治学会、2009年、2_129–2_149、doi:10.7218/nenpouseijigaku.60.2_129。
- ^ 西山孝純『カレン民族解放軍のなかで』アジア文化社、1994年。ISBN 4-7952-3973-8。NDLJP:13224012 。
- ^ キンニュン『私の人生にふりかかった様々な出来事―ミャンマーの政治家 キン・ニュンの軌跡〈上巻〉』三恵社、2020年3月26日、74-76頁。
- ^ “ミャンマーの熱い季節”. 国際開発研究者協会. 2024年8月23日閲覧。
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 37-39.
- ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 222-232.
参考文献
編集- 田辺寿夫『ビルマ民主化運動1988 : ドキュメント』梨の木舎、1989年。NDLJP:13139479 。
- 藤田昌宏『誰も知らなかったビルマ』文藝春秋、1989年。ISBN 978-4163435800。NDLJP:13183397。
- Bertil Lintner『Outrage : Burma's Struggle for Democracy』(Kindle版)Weatherhill; Subsequen、1995年2月。ISBN 978-0951581414。
- Bertil Lintner (2024-9-26). The Golden Land Ablaze: Coups, Insurgents and the State in Myanmar. Hurst Publishers. ASIN B0DH4K7HJ2
- 三上義一『アウン・サン・スー・チー: 囚われの孔雀』1995年7月 ISBN 978-4062630696
- 伊野憲治『ミャンマー民主化運動』2018年4月 ISBN 978-4839603113
外部リンク
編集- ビルマ情報ネットワーク内根本敬「ビルマ問題入門」
- 国民民主連盟(解放地域)日本支部内「8888」 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)