ビリー・マイヤー (野球)
アメリカ合衆国の野球選手 (1893-1957)
ウィリアム・アダム・マイヤー(William Adam Meyer, 1892年1月14日 - 1957年3月31日)は、アメリカ合衆国テネシー州ノックス郡ノックスビル出身の元プロ野球選手(捕手)、監督。右投右打。
マイヤーのベースボールカード(1951年) | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テネシー州ノックス郡ノックスビル |
生年月日 | 1892年1月14日 |
没年月日 | 1957年3月31日(65歳没) |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 170 lb =約77.1 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1910年 |
初出場 | 1913年9月6日 |
最終出場 | 1917年9月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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経歴
編集現役時代、選手としては1910年代にシカゴ・ホワイトソックスとフィラデルフィア・アスレチックスでプレーしたが、3年間で113試合にしか出場していない。
引退後の1926年、後に殿堂入りすることになるジョー・マッカーシーの後任としてAA級ルイビル・カーネルズの監督に就任した。早速この年に優勝したが、その後1947年までの間に8度優勝をもたらし、マイナーリーグで監督としての才能を発揮した。
1948年にはピッツバーグ・パイレーツの監督に就任した。この年は4位にもかかわらずスポーティングニュース社選定の「最優秀監督」として表彰された。2年目以降は6、8、7、8位と低迷を繰り返したが、ファン、選手、報道陣には大いに慕われたという。
監督退任後はパイレーツのスカウトを務め、1957年3月31日に死去した。1954年にマイヤーの背番号『1』はパイレーツの永久欠番に指定されており、5年間の監督在任時に着けていたものである[1]。
また、マイヤーの故郷・ノックスビルに1953年に建てられた野球場はマイヤーの名を取り、ビリー・マイヤー・スタジアムとして、AA級マイナーリーグチームノックスビル・スモーキーズの本拠地として長く使われた。1999年に球場は閉鎖され、2003年に解体されている。
詳細情報
編集背番号
編集- 1 (1948年 - 1952年)
脚注
編集- ^ 「球団別永久欠番物語 第6回 ピッツバーグ・パイレーツ」『月刊メジャー・リーグ』 2001年1月号 ベースボール・マガジン社 82頁
関連項目
編集外部リンク
編集- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com