パブロ・ニエト・アギラール(Pablo Nieto Aguilar, 1980年6月4日 - )は、スペインマドリード出身の元オートバイレーサー。ロードレース世界選手権で延べ13回のチャンピオンを獲得したアンヘル・ニエトの息子。兄のアンヘル・ニエトJr.(ヘレテ・ニエト)、いとこのフォンシ・ニエトと同じくロードレース世界選手権に参戦した経験を持つ。

パブロ・ニエト
グランプリでの経歴
国籍 スペインの旗 スペイン
活動期間 1998年 - 2008年
チーム アプリリア, デルビ, KTM
レース数 158
優勝回数 1
表彰台回数 8
通算獲得ポイント 747
ポールポジション回数 3
ファステストラップ回数 5
初グランプリ 1998年 125cc カタルニアGP
最終グランプリ 2008年 125cc バレンシアGP
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経歴

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キャリア初期

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1995年にはミニバイクのマドリード地方選手権で3位、カスティーリャ=ラ・マンチャ州の選手権でチャンピオンを獲得した。1996年には125ccカジバカップ、1997年からはロードレースヨーロッパ選手権125ccクラスに参戦を開始した。

世界選手権125ccクラス

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1998年にはロードレース世界選手権第12戦カタルニアで、兄ヘレテの所属するチームから125ccクラスのレースにワイルドカード枠でGPデビューを果たした。

1999年からはデルビ・チームからGPフル参戦を開始し、エースライダーの宇井陽一のチームメイトとして3シーズンを戦った。このチームでは2000年に68ポイントを獲得しシリーズ13位に入ったのがベストシーズンとなった。

2002年にはホルヘ・マルチネス率いるアスパー・チームに移籍。アプリリアのワークスマシンを駆って初表彰台・初ポールポジションを獲得し、シリーズ6位に入る活躍を見せた。2003年には第11戦エストリルで初優勝、他にも2度表彰台に立つ活躍を見せ、ポイントは前年より多く獲得したものの、シリーズランキングは1つ落として7位となった。アスパー・チーム最後のシーズンとなった2004年は表彰台2回の獲得でシリーズ6位となった。

2005年にはデルビに復帰したが、マシンの競争力不足でシリーズ13位に終わる。2006年からは Multimedia Racing チームに移籍し、再びアプリリアを駆ったが、今回はプライベーター仕様のマシンだったこともあり、ランキングはまたも13位に終わった。

フル参戦10年目となった2008年、パブロは125ccクラスの年齢制限の28歳に到達することもあり、この年が現役最後のシーズンとなった。父アンヘル、兄ヘレテと共に立ち上げた新チーム「オンデ2000」のライダーとしてKTMのマシンを駆ったが、シリーズ21位で最後のシーズンを終えることになった。

引退後

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パブロは引退後、兄ヘレテと共にオンデ2000チームの運営に集中することになった。2009年よりチームは最高峰MotoGPクラスに移り、現役復帰したセテ・ジベルナウをライダーにドゥカティ・デスモセディチを走らせることになった。ところがスポンサーのグループ・フランシスコ・エルナンドが資金難に陥ったため、シーズン途中で撤退の憂き目にあってしまった。

2010年には兄と共に「G22レーシング」を立ち上げ、新たに始まったMoto2クラスにモリワキのシャシーで参戦、いとこのフォンシ・ニエトがエースライダーを務めた[1]

2024年現在はVR46レーシングチームのチームマネージャーを務めている。

ロードレース世界選手権 戦績

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シーズン クラス バイク 出走 優勝 表彰台 PP ポイント 順位
1998年 125cc アプリリア 1 0 0 0 - -
1999年 125cc デルビ 16 0 0 0 15 23位
2000年 125cc デルビ 16 0 0 0 68 13位
2001年 125cc デルビ 15 0 0 0 21 24位
2002年 125cc アプリリア 16 0 3 1 145 6位
2003年 125cc アプリリア 16 1 3 2 148 7位
2004年 125cc アプリリア 16 0 2 0 138 6位
2005年 125cc デルビ 16 0 0 0 64 13位
2006年 125cc アプリリア 13 0 0 0 66 13位
2007年 125cc アプリリア 17 0 0 0 57 15位
2008年 125cc KTM 16 0 0 0 25 21位
合計 158 1 8 3 747

脚注

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外部リンク

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