パブロ・コントレラス

チリのサッカー選手

パブロ・コントレラス(Pablo Andrés Contreras Fica, 1978年9月11日 - )は、チリ首都州サンティアゴ出身の元サッカー選手チリ代表である。ポジションはDF(センターバック)。

パブロ・コントレラス
名前
本名 パブロ・アンドレス・コントレラス・フィカ
Pablo Andrés Contreras Fica
ラテン文字 Pablo Contreras
基本情報
国籍  チリ
生年月日 (1978-09-11) 1978年9月11日(46歳)
出身地 サンティアゴ
身長 181cm
体重 78kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
ユース
1991-1996 チリの旗 コロコロ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-1999 チリの旗 コロコロ 37 (2)
1999-2001 モナコの旗 モナコ 26 (0)
2001 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ (loan) 8 (0)
2001-2008 スペインの旗 セルタ・デ・ビーゴ 105 (6)
2001-2002 スペインの旗 オサスナ (loan) 31 (1)
2002-2003 ポルトガルの旗 スポルティングCP (loan) 30 (2)
2008 ポルトガルの旗 ブラガ 13 (0)
2008-2012 ギリシャの旗 PAOK 106 (6)
2012 チリの旗 コロコロ 16 (0)
2012-2013 ギリシャの旗 オリンピアコス 17 (1)
2013-2014 オーストラリアの旗 メルボルン・ビクトリー 20 (1)
代表歴
1999-2012 チリの旗 チリ 67 (2)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
2000 シドニー サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クラブ経歴

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CSDコロコロ

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CSDコロコロの下部組織出身。1997年にプロデビューし、チリ代表出場50試合超を誇るセンターバックのペドロ・レイエスの指導の下、1歳年上のダビド・エンリケスと名コンビを組んだ。レイエスがフランスのAJオセールに移籍した後の2シーズンは37試合に出場し、クラウスーラ1997と1998の2度のチリ・プリメーラ・ディビシオン制覇に貢献した。

ASモナコ

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1999年、フランスのASモナコに移籍した。まだ21歳であったが、1999-2000シーズンのリーグ・アントロフェ・デ・シャンピオン(スーパーカップ)制覇の重要な要素であった。モナコでは1999-2000シーズンにUEFAカップ、2000-01シーズンにUEFAチャンピオンズリーグに出場した。しかし2001年1月、EU圏内枠を得るためにイタリアの偽造パスポートを使用していたことが発覚した。パリの裁判所は3万ユーロの罰金と2年間の出場停止処分をコントレラスに課した。

CAオサスナ

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フランス国内ではしばらくプレーできなくなったため、アルゼンチンのラシン・クルブにレンタルに出され、そこで8試合に出場した。2001年6月にはスペインのセルタ・デ・ビーゴに完全移籍する可能性があったが、CAオサスナにレンタル移籍した。2001-02シーズンは31試合に出場して1得点したが、17位で降格を逃れた。

スポルティングCP

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オサスナは下位に沈んだが、コントレラスのプレーはポルトガルの強豪スポルティングCPの目に留まり、2002-03シーズンはレンタル移籍することになった。リーグ戦では30試合に出場して2得点した。モナコ時代以来2度目のUEFAチャンピオンズリーグ出場を果たしたが、予選3回戦でインテル・ミラノと対戦して敗退した。コントレラス自身はホーム&アウェーの2試合ともに先発出場した。

セルタ・デ・ビーゴ

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2003年、スペインのセルタ・デ・ビーゴに移籍した。セルタは前のシーズンに4位でUEFAチャンピオンズリーグ予選出場権を獲得していた。グループリーグは主に控えだったが、ACミランアヤックス・アムステルダムと同居した難しいグループを2位で勝ち進んだ。決勝トーナメント1回戦でアーセナルFCと対戦した。終盤にホセ・アントニオ・レジェスに対するファールで2枚目のイエローカードを受け、退場となった。UEFAチャンピオンズリーグでは健闘したセルタだったが、リーグ戦は19位に終わり、セグンダ・ディビシオン(2部)への降格が決定した。しかし2004-05シーズンは2位ですぐさまプリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格した。このシーズンにはポジションを掴み、その後2シーズンに渡ってポジションを維持した[1]。2005-06シーズンは6位でUEFAカップ出場権を獲得した。しかし2006-07シーズンはまたもやセグンダへの降格が決まった。2度目のセグンダでは監督に構想外とみなされ、2007年中にわずか3試合の出場機会しか与えられなかった[1]。2008年1月、セルタとの契約を解除した。

PAOKテッサロニキ

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2008年1月、ポルトガルに戻ってSCブラガと6ヶ月間の契約をした。その間に13試合に出場した。同年6月、セルタ時代のチームメイトであるジシス・ヴリーザスがテクニカルディレクターを務めていた縁でギリシャのPAOKテッサロニキと2年間の契約をした。

代表経歴

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1999年2月17日、グアテマラ戦でチリ代表デビューした。同年のコパ・アメリカでは4位入賞した。2000年のシドニーオリンピックでは銅メダルを獲得し、コントレラスは大会のベストディフェンダーのひとりに数えられた。2002年の日韓ワールドカップと2006年のドイツワールドカップの南米予選に参加したが、どちらの本大会にも出場は叶わなかった。

コパ・アメリカ2007での事件と出場停止

コントレラスのキャリアの中で悪い時期が2007年のコパ・アメリカの大会中に訪れた。レイナルド・ナビアホルヘ・バルディビアロドリゴ・テージョホルヘ・バルガスアルバロ・オルメーニョはホテルで事件に巻き込まれた。ホテルのスタッフが、チリ代表選手が酒を飲んでバカ騒ぎし、食べ物を投げつけ、ホテルの備品を壊していたことを訴えたのである。この事件の後、チリはブラジルに1-6の大差で敗れた。ネルソン・アコスタ監督が辞職した後、関係したすべての選手にチリサッカー連盟から20試合の出場停止処分が下された[2]。10試合の出場停止が経過した後、オルメーニョを除く選手たちは、彼らの行いを認めて謝罪する文書にサインした。残りの10試合が終わると、マルセロ・ビエルサ新監督の下で代表の重要な選手のひとりに戻り、南アフリカワールドカップ予選に出場している。2008年10月にはワールドカップ予選で初めてアルゼンチン代表を破ったが、その試合でもコントレラスはフル出場している[3]。チリ代表の敗北は1916年から始まり、この試合前までの35戦で0勝9分26敗という有様だった。

所属クラブ

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2001 →  ラシン・クルブ (loan)
2001-2002 →  CAオサスナ (loan)
2002-2003 →  スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル (loan)

タイトル

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CSDコロコロ
ASモナコ
チリ代表

脚注

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  1. ^ a b BDFutbol.com
  2. ^ AFP BB News (2007年7月12日). “チリ代表の6選手に出場停止処分”. 2009年8月1日閲覧。
  3. ^ FIFA.com

外部リンク

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